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痛み止めの歴史
- 仲條拓躬
2026/10/19 (Mon) 19:48:27
「痛み」というのは、我々にとってもっとも不快な感覚の一つでしょう。頭痛や関節痛、腰痛などで痛み止めを手放せない人も多いことでしょう。こうした需要は、今も昔も変わらないのです。痛みをやわらげるため、人類はこれまでさまざまな方法を試してきました。
中でも痛みを止めるのに有効だったのが、ヤナギの葉や樹皮です。古代ギリシャ、ローマの時代から、長らくヤナギは痛みや発熱を抑える目的で使われていたのです。1800年代に、ヤナギの有効成分である「サリチル酸」が抽出され、のちに人工的に化学合成できるようになったのです。
サリチル酸の名は、ヤナギの学名 「Salix (サリクス)」に由来するものです。だが、サリチル酸には大きな欠点がありました。胃の不快感や吐き気、胃潰瘍などの副作用があまりに強かったのです。1890年代、サリチル酸の改良に着手したのが、ドイツの製薬会社バイエルで医薬品研究を行っていたフェリックス・ホフマンでした。
ホフマンには、この研究に打ち込む理由がありました。関節リウマチだったホフマンの父は、関節痛のためにサリチル酸を内服しており、ひどい副作用に悩まされていたのです。1863年に染料会社として創業されたバイエルは、1888年に医薬品部門を創設し、さまざまな薬の研究を行っていました。
中でも、薬の性質を改変し安全性を高めるための手法の一つ、「アセチル化」が精力的に研究されていました。薬の分子構造に「アセチル基」を導入する反応です。「アセチル基」 (CH3CO-)とは、酸素原子(0)と二つの炭素原子(C)、三つの水素原子(H)が結合した構造のことです。この構造を結合させると、化学物質の性質が変化します。
1897年、ホフマンはサリチル酸をアセチル化することで、胃への副作用を軽くできることを発見しました。1899年にバイエル社は、この「アセチルサリチル酸」の錠剤を発売しました。商品名は、「アスピリン」です。
アスピリンの人気は絶大で、爆発的に売れ続けました。1950年代には世界でもっとも売れた鎮痛薬としてギネスブックにも登録され、今に至るまで鎮痛薬の代表的な存在になっています。例えば「半分はやさしさでできている」のキャッチコピーでおなじみの市販薬「バファリン」は、「バッファー+アスピリン」に由来するアスピリン製剤です。
まさに鎮痛薬のベストセラーといっていいアスピリンですが、「なぜ痛みがおさまるのか」については長らく不明でした。この謎は、1971年、イギリスの薬理学者ジョン・ロバート・ヴェインによって解明されました。アスピリンが発売されてから70年以上も後のことです。ヴェインはこの功績で、1982年にノーベル医学生理学賞を受賞しました。
アスピリンはなぜ痛みに効くのか。その原理は少し複雑ですが、薬理学の講義で医学生が必ず学び、試験にも頻出の大切な知識です。アスピリンの主な作用は、プロスタグランジンを産生する酵素、シクロオキシゲナーゼを阻害することです。
プロスタグランジンとは、炎症を促す物質の総称です。例えば、傷口がひどく膿んだときを想像してみよう。そこでは、白血球が集まって細菌と激しく戦っている、いわば「戦場」です。毛細血管が拡張して血液が集まるため、赤く腫れて熱を持ちます。
白血球とともに血管内の液体が血管の壁を透過して滲出液になり、これが白血球の「死骸」と混ざってドロドロした膿になります。ブラジキニンと呼ばれる、痛みを引き起こす物質が産生され、傷口はズキズキと痛む。こうした一連のプロセスが「炎症」です。
プロスタグランジンは、このプロセスを促進する方向に働く。また、プロスタグランジンは脳の視床下部にある体温調節中枢に働きかけ、体温を上昇させます。体の炎症がひどくなれば熱が出る、というのは、経験上理解しやすいでしょう。
逆に、アスピリンによってプロスタグランジンの産生が抑えられると、これらのプロセスが阻害されます。必然的に、痛みは軽くなり、熱が下がるのです。アスピリンが「解熱鎮痛薬」と呼ばれる理由です。
現在広く使用される解熱鎮痛薬には、ロキソプロフェン(ロキソニン)、イブプロフェン(プルフェン)、ジクロフェナク(ボルタレン)などがありますが、これらはアスピリンと同じ作用を持ち、「非ステロイド性抗炎症薬(NSAIDs)」と総称されています。いわゆる「痛み止め」と「熱冷まし」は、いずれもこれらの薬の作用を表す言葉です。
先に述べたように、サリチル酸は胃への副作用が強かった。軽減されたとはいえアスピリンにも同じ副作用はあり、胃や十二指腸の潰瘍(合わせて「消化性潰瘍」)は、NSAIDsに共通する副作用です。痛み止めが胃を荒らすという事実は、誰もがよく知っているはずです。
この副作用が起こるのは、胃や十二指腸の粘膜を保護する作用を持つプロスタグランジン(BやIというタイプ)の産生が阻害されるからです。胃の中は、胃酸によって極めて強い酸性環境になっています。NSAIDsによってプロスタグランジンの産生が抑えられると、粘膜の保護が弱くなり、胃酸が胃や十二指腸の壁を傷つけてしまうのです。
まさに、あちらを立てればこちらが立たず。プロスタグランジンも、当然ながら体になくてはならない物質なのです。そこで、NSAIDsを長い期間服用するときは、胃薬で潰瘍を予防する必要があります。もちろん、どんな胃薬でもいいわけではない。
NSAIDsを長期に使用する際に、消化性潰瘍の予防効果が証明されているのは、プロトンポンプ阻害剤、プロスタグランジン製剤、1受容体拮抗薬と呼ばれるタイプの胃薬だけです。ともかくアスピリンは、その抜群に優れた機能によって医学の歴史を変えました。本来「アスピリン」は商品名ですが、今や一般名として使用されるようになっているのです。
ちょうど、ホチキスやサインペン、マジックのように、商品名があまりに有名になりすぎたせいで、一般名のごとく頻用されるのと状況は似ています。ちなみに、アスピリンの開発秘話として、必ずホフマンの親孝行話が美談として語られるのですが、必ずしもそれだけが真実ではないらしいです。
製薬業界に精通した研究者、ドナルド・R・キルシュは『新薬という奇跡 成功率0.1%の探求』(ハヤカワ文庫)の中で、真の功労者はユダヤ人研究者アルトゥル・アイヒェングリュンだとしています。アイヒェングリュンはアスピリン開発に直接かかわった中心人物で、バイエル社の命運を変えた張本人だが、その功績はナチスによって隠蔽されたといいます。
いずれにしても、歴史を変えるような新薬の開発は、多くの研究者たちの英知が結集して成し遂げられたものでしょう。どの薬とて、ただ一人の着想によるものではないのです。必ずしも歴史に名を残すことのない、数えきれない研究者たちの血の滲むような努力によって我々は救われているのです。
糖尿病について
- 仲條拓躬
2026/10/19 (Mon) 19:47:21
1921年、医学の歴史を変える重大な発見がありました。血糖値を下げるホルモン「インスリン」インスリンは膵臓でつくられるホルモンです。我々の体はわずかな血糖値の変動を察知し、膵臓からホルモンを分泌することで血糖値を一定に保ちます。
糖尿病は、インスリンの不足や、インスリンに対する体の反応が鈍くなる「インスリン抵抗性」が原因で起こる病気です。血液中のブドウ糖の濃度が高くなると、濃度の差に従って血管内に水が引き込まれます。
それが尿になって多尿となり、異常にのどが乾き、多飲になります。過剰なブドウ糖は尿中に排泄されるため、尿中のブドウ糖濃度が異常に高くなります。これが「糖尿病」という名前の由来です。
人間の体には100種類を超えるホルモンがありますが、血糖値を下げるホルモンはインスリンただ一つです。一方、血糖値を上げるホルモンは、成長ホルモン、副腎皮質ホルモン、甲状腺ホルモン、グルカゴン、ソマトスタチンなど多くあります。
血糖値を上げるしくみのほうが充実しているのは、動物として食糧の不足に備える必要性を考えれば当然のことだといえます。現代の人類は、歴史上では極めて稀有な、「食糧に困らない動物」なのです。糖尿病にはいくつかのタイプがあります。
中でも重要なのが、一型糖尿病と二型糖尿病です。糖尿病の9割を占めるのが二型糖尿病であり、多くの人になじみ深い生活習慣病の「糖尿病」は二型のほうです。二型糖尿病は、遺伝的な要因と、過食や肥満、運動不足などの環境要因により、インスリン抵抗性とインスリンの分泌低下がともに起こる慢性疾患です。
高血糖に長期間さらされると、さまざまな臓器に障害が起きます。中でも代表的なのが、神経、目、腎臓の障害です。医学生は、国家試験に備えてこの三大合併症を「しめじ」と語呂合わせで覚えるといいます。神経(し)、目(め)、腎臓 (じ)です。
末梢神経が障害され、手足にしびれが現れたり、感覚が鈍くなったりします。また、全身の細い血管が蝕まれ、網膜の細い血管が傷んで糖尿病網膜症となり、悪化すると失明します。糖尿病は、日本の失明原因の第三位です。
腎臓の血管が傷むことで起こる糖尿病腎障害では、徐々に腎臓の機能が破壊され、最終的には透析が必要になります。透析を導入する原因疾患のうち糖尿病は第一位であり、約四割を占めています。
高血糖は免疫の機能も低下させるため、足の小さな傷が気づかないうちにひどい感染症を起こし、細い血管の血流が悪いことも相まって足が腐ってしまいます。この「足壊疽」も糖尿病の代表的な合併症で、時に足の切断が必要になります。
糖尿病の患者は、そうでない人より足切断を受ける可能性が30倍高いです。こうした説明からわかるように、二型糖尿病は一般に、ゆっくり体を蝕む慢性疾患です。一方、一型糖尿病は全く異なる特徴を持つ。生活習慣とは無関係で、小児期から思春期に多いです。
インスリンを分泌する膵臓の細胞(8細胞という)が壊れ、インスリンの量が絶対的に不足する状態です。多くは、免疫系が自分の膵臓を誤って攻撃してしまうことで生じると考えられています。
一型糖尿病の問題は、膵臓からインスリンがほとんど分泌されなくなることです。注射でインスリンを体外から補わなければ生きることはできないのです。インスリンの存在が知られていなかった二十世紀初頭まで、一型糖尿病の患者は極めて短命で、発症後数年以内に亡くなっていました。
インスリンがない場合、体でどのようなことが起こるのだろうか? インスリンは「血糖値を下げるホルモン」と書きましたが、正確には、血液中に流れるブドウ糖を細胞に取り込ませ、エネルギー源として利用できるようにするホルモンです。
血糖値の低下は、その結果です。よって、インスリンがないと体はエネルギーを効率的に生み出せず、急激に痩せていきます。また、ブドウ糖をエネルギー源に使えないと、体は代替として多量の脂肪を分解してエネルギーを産生し始めます。
すると、分解産物である「ケトン体」という酸性物質が過剰に体内に蓄積し、血液が酸性に傾いていくのです。この状態を糖尿病性ケトアシドーシスと呼び、急速なインスリン投与が行われないと昏睡状態に陥って死亡するのです。
人体の各臓器が正常に働くためには、常に血液は中性の狭い範囲(厳密にはわずかにアルカリ性)に維持されなければならないためです。インスリンが発見されるまで、一型糖尿病は若い人たちの命をあっという間に奪う不治の病だったのです。
2026年群馬・埼玉旅日記
- 仲條拓躬
2026/10/19 (Mon) 19:46:21
大型観光バス2台で、群馬県の富岡製糸場へ向かいました。大勢での出発はとてもにぎやかで、車内でも会話がはずみ、遠足のような楽しい雰囲気でした。富岡製糸場は、群馬県富岡市にある世界文化遺産で、日本の近代化を支えた歴史ある場所として知られています。
現地に近づくにつれて期待が高まり、到着後は赤れんがの建物や広々とした敷地に、歴史の重みを感じました。みんなで同じ景色を見ながら、貴重な時間を過ごすことができました。現地のガイドを利用したので、一段と勉強になりました。
富岡製糸場でお勉強した後は、近くにある和采屋源氏で昼食をとりました。落ち着いた和の雰囲気の中で、ゆっくり食事ができて、とても心地よい時間でした。富岡製糸場の歴史ある町並みにもよくなじんでいて、観光の合間の食事がいっそう特別に感じられました。
和采屋源氏でお食事をした後は、国立重度知的障害者総合施設のぞみの園を見学し、施設の説明を聞く機会がありました。のぞみの園は、重度の知的障害のある方の自立に向けた総合的な支援に加え、調査研究や人材育成にも取り組んでいる施設であり、その役割の大きさを改めて知ることができました。
見学を通して、利用者一人ひとりの状況や思いに寄り添いながら、生活支援や日中活動、地域での暮らしを見据えた支援が丁寧に行われていることが印象に残りました。施設入所支援、生活介護、共同生活援助など、さまざまな事業が総合的に実施されていることを知り、支援の幅広さと専門性の高さを感じました。
今回の見学では、支援とは単に生活を助けることではなく、その人らしい暮らしや社会とのつながりを支えることなのだと学びました。現場で働く方々の姿勢や工夫から多くの気づきを得ることができ、大変勉強になりました。今回学んだことを、今後の自分の考え方や行動に生かしていきたいと思います。
国立のぞみ園で勉強をした後、舌切り雀のお宿・磯部ガーデンへ行きました。到着後はグループごとに分かれてお勉強会を行い、それぞれ充実した時間を過ごしました。その後は短い時間の温泉に入り、ゆっくりと疲れを癒やすことができませんでした。
お風呂のあとは宴会が開かれ、我孫子の星野市長にもご参加いただきました。みんなでカラオケなどを楽しみ、にぎやかで思い出に残るひとときとなりました。学びと交流のどちらも深めることができた、とても有意義な一日でした。
二日目は、昨日、あわてて入った温泉に朝一で入りました。朝の静かな時間だったこともあり、温泉は私一人だけで、贅沢でとても気持ちのよいひと時を過ごせました。その後は、バイキングの朝食を楽しみました。食事のあとは、我孫子市の星野市長と一緒に写真を撮る機会もあり、思い出に残るひとときになりました。
そして次に向かったのは、ひでちゃんが大使を務めるこんにゃくパークです。食べ放題や見学・買い物も楽しめる、磯部ガーデン周辺から立ち寄り先としても知られています。こんにゃくパークへ行ったあと、花園にあるフォレストのお土産屋さんにも立ち寄りました。
花園フォレストは、スイーツやお土産が充実した人気スポットです。店内にはおいしそうなお菓子がたくさん並んでいます。今回は、焼き立てスイーツ、ホールのチーズケーキなどを購入しました。その後は、ジオパークおがのへ向かいました。
見学する前は、ジオパークはただ自然がたくさんある場所だと思っていましたが、実際には大地の成り立ちや岩石、地形、そしてそこで暮らす人々の生活や文化まで深く関わっていることを知り、とても驚きました。ジオパークは、地球の長い歴史を感じながら学ぶことができる場所なのだと分かりました。
見学では、展示や説明を通して、土地のでき方や自然の特徴について学びました。岩や地層にはそれぞれ意味があり、長い年月をかけて今の景色がつくられてきたことを知りました。ふだん何気なく見ている地面や山や海にも、昔の地球の様子を知る手がかりがかくされているのだと思うと、とても興味がわきました。
また、見学をしながら、自然を守ることの大切さについても考えました。貴重な地形や自然環境は、一度こわれてしまうと元に戻すことが難しいので、みんなで大切にしていかなければならないと思いました。ただ見るだけではなく、その価値を知って守る気持ちを持つことが大事だと感じました。ジオパークおがのを出発し、養浩亭へ向かいました。
養浩亭に到着すると、静かな雰囲気がとても心地よく、ゆったりとした気持ちになりました。養浩亭は長瀞の自然に囲まれた宿として知られていて、落ち着いた空間の中で過ごせる場所です。渋沢栄一にゆかりのある宿として紹介されている点も印象的でした。
そしてそこで、星野市長とご一緒に釜めしをいただくという、とても貴重な時間を過ごしました。温かい釜めしは香りも良く、見た目にも食欲をそそり、一口食べるごとにほっとするようなおいしさがありました。落ち着いた場所でいただく食事だったこともあり、いつも以上に味わい深く感じられました。
食事のあとは、長瀞を代表する名勝として知られる岩畳へ向かった。荒川沿いに広がる岩畳は想像していた以上に開放感があり、長い年月をかけてつくられた独特の岩の形がとても印象的だった。川の流れを眺めながら岩の上を歩いていると、自然の大きさと静けさに包まれるような気持ちになり、日常のあわただしさをしばらく忘れることができた。
空や山、川の景色がひとつになった眺めは美しく、長瀞ならではの魅力を存分に味わえた時間だった。その後は万寿庵に立ち寄り、有名な漬物を購入した。店先にはさまざまな漬物が並んでいて、どれにしようか迷う時間も楽しかった。
土地ならではの味を持ち帰ることができるのは旅の楽しみのひとつで、家に帰ってからも今日の思い出をゆっくり振り返ることができそうだと思った。食事を楽しみ、美しい景色に癒やされ、最後にはお土産まで選ぶことができて、とても満ち足りた気分になった。長瀞の魅力をあらためて感じることができた、心に残る一日だった。
帰りは観光バスに乗って帰路につきました。行きのにぎやかな気分とは少し違い、帰りの車内には一日の疲れと満足感がゆっくりと広がっているようでした。順番に降りていくうちに、私は最後のほうまでバスに残ることになり、だんだん静かになっていく車内で、その日一日の出来事を思い返していました。
楽しかった見学や買い物を終え、ほっとした気持ちもあったのですが、最後のほうになったことで気が緩んだのか、うっかり居眠りをしてしまいました。目を閉じると、岩畳の雄大な景色や、お店で土産を選んでいた時間が思い出され、心地よい疲れとともに眠気が増していったのだと思います。それだけ充実した一日だったのだと感じました。
政治家の世襲と質とは
- 仲條拓躬
2026/10/19 (Mon) 19:45:01
過去の都議会選挙ですが、自民党が大敗して、国政政治が動きそうな気配でした。小池都知事の人気、自民党一強、森友や加計問題への反発などが原因と報じられていましたが、野党が沈んでいるのを見ると過去に民主党から出馬した家族達を残念に思ってしまいした。
安倍首相は加計学園問題の疑惑を国民に説明しないので、安倍首相の支持率はどんどん下がり始めていました。だが、安倍総理は米国のトランプ大統領とはとてもうまくいっていました。外交がとても安定して見えるのは似た者同士だったのでしょうか。
総理が替わってしまったら、安倍総理なみの外交は出来るのであろうかと心配しました。私の地元から選出された桜田大臣の失言を簡潔に言えば、安倍総理の側近の質が余りよくないように思えました。トランプ大統領も同じかもしれません。
私は第一次世界大戦後のワイマール憲法下からヒトラー・ナチス政権誕生までに極めて興味がありました。将棋の藤井聡太氏の登場は、大衆が如何に英雄を望んでいるか象徴する出来事です。国家の危機の時、愚鈍な政治家ばかりでは、亡国の危険にさらされます。
しかし、ヒトラーもスターリンも毛沢東もその時代のヒーローでした。だが、彼らが登場したばかりでは、彼らが独裁者となることを国民は予測できなかったのです。フランスは、政治の右傾化を選挙によって抑止しました。
ところが、日本の安倍総理以後のトップは誰になるか、誰も分かりませんでした。政治家の質は、その国の民度に左右されると思います。つまり、どんなトップを選ぶのかは、民主主義国家の国民が決める事になっています。
北朝鮮を見るまでもなく、事業承継でも世襲がなかなかうまく機能しないように、政治家の世襲はやはり無理があるようです。安倍総理も麻生副総理も代々の政治家です。徳川260年はある種の奇跡なのかもしれません。
私は恥ずかしながら石原莞爾平和思想研究会(石研)の会長として東亜連盟や協和会を継承しています。現在の石研の会長は父の志を継いでいるのである意味では世襲のようなものです。世襲は駄目だと言われないように精進したいと考えます。
麻酔薬の進歩 - 仲條拓躬
2026/10/13 (Tue) 18:47:08
和歌山県紀の川市には、「青洲の里」という道の駅があります。江戸時代、紀州藩の医師であった華岡青洲にちなんだものです。そこには、診療所兼住居であった春林軒や華岡青洲顕彰記念公園があり、さまざまなモニュメントがつくられています。
青洲は、世界で初めて全身麻酔を行った医師です。19世紀になるまで全身麻酔の技術はなく、手術は痛みに耐えながら受けるのが常識でした。激痛にうめき、絶叫する患者を相手に、外科医には手早い手術が求められました。
また、麻酔なしでは、できる手術も限られていました。「眠っている間に痛みを感じさせることなく体を切り開き、再び縫い閉じて目を覚ます」などという芸当ができるとは、当時は誰も想像できなかったに違いないでしょう。
医師である父を幼い頃から見ていた青洲は、自分も将来は医師になり、困っている人を助けたいと考えていました。青洲が取り組んだのは、数々の薬草を用いた麻酔薬の開発でした。痛みのない手術を実現するためです。
1804年、青洲は苦心の末、ついに麻酔薬の通仙散を発明し、全身麻酔によって乳がんの摘出に成功します。青洲の人体実験は、自身の妻と母にも行われました。二人は、自らの体で全身麻酔を試してほしいと青洲に申し出たからです。
青洲はその後、100人以上の乳がん患者に全身麻酔手術をして実績を上げました。多くの弟子が全国から集まり、青洲のもとで学んだのです。だが、青洲の開発した全身麻酔薬は用量の調節が難しく、世界に広まることはなかったのでした。
全身麻酔が広く普及するきっかけをつくったのは、アメリカの歯科医たちでした。青洲が初めて全身麻酔を行った、その約40年も後のことです。18世紀後半から19世紀にかけて、亜酸化窒素という気体がパーティーやショーなどで使われていました。
この気体を吸うと酩酊したように笑いが止まらなくなるため、「笑気ガス」とも呼ばれていました。若者たちは夢見心地の状態になり、怪我をしてもその痛みに気づかなかったのです。この様子を見た歯科医のホレス・ウェルズは、ある妙案を思いつくのです。
この気体があれば、痛みを伴わずに歯の治療ができるのではないかと考えたのです。ウェルズはまず、自分自身でその効果を試しました。笑気を自ら吸いこみ、意識を失っている間に友人のジョン・リグズによって親知らずを抜歯されたのです。
驚くべきことに、痛みは全くなかったのです。その後、実際に笑気を多くの患者に使い、その効果を確信したウェルズは、1845年1月に公開の場で実演を試みました。場所は、ボストンのマサチューセッツ総合病院です。
名門ハーバード・メディカルスクールの最たる関連病院です。だが、不運なことにウェルズの実演は失敗に終わったのです。聴衆が見守る中、手術中に患者は痛みを訴え、悶え苦しんだのです。「ペテン師」「ごまかし」とウェルズに非難は集中しました。
真面目で努力家だったウェルズは再び実験を繰り返しましたが、信頼を回復することはできなかったのです。ウェルズの実験がなぜうまくいかなかったのか。笑気の量や純度の問題なのか、あるいは気候によるものなのか。それは今も謎です。
一方、ウェルズの公開実験で助手を務めていたのが、同じ歯科医のウィリアム・モートンだった。ウェルズの失敗を見たモートンは、笑気ではなくエーテルを選んで実験を行いました。エーテルの蒸気にも笑気に似た効果があり、「エーテル遊び」という集会が催され、やはり娯楽の道具として使われていたのです。
自分の患者にエーテルを使い、痛みのない手術が行えることを確認したモートンは、1846年、ウェルズと同じ場所で公開実演を試みました。ウェルズの失敗からわずか一年後のことです。結果は大成功だったのです。
患者は全く痛みを感じることなく、あごの腫瘍を切除されたのです。このことは大きく報道され、麻酔法が普及する第一歩になったのです。その後、エーテルには引火の危険性があることから、より安全なクロロホルムも吸入麻酔薬として用いられるようになりました。
むろんエーテルもクロロホルムも、過量に投与すると体に重篤な副作用を引き起こすことがあります。そこで、気体の濃度を調整できる吸入器をつくり、麻酔の安全性を高めたのが、イギリスの医師ジョン・スノウです。コレラの原因を見抜いた医師です。
現在は、さらなる麻酔薬の進歩により、安全性の高い複数の薬を組み合わせ、症例に応じて使い分けられるようになっています。麻酔に関連する事故は極めて少なくなり、麻酔科医の管理のもと、外科医は10時間、20時間といった長い手術も行えるようになっているのです。
とうきょうスカイツリー駅について - 仲條拓躬
2026/10/13 (Tue) 18:45:57
橋梁名から新東京名物のシンボル名に、吾妻橋から浅草、浅草から業平橋と東武鉄道・伊勢崎線の名称が変わりました。そして、業平橋から、とうきょうスカイツリー駅、2012年3月17日。業平橋駅←浅草駅=1931年5月25日。浅草駅←吾妻橋駅=1910年3月1日。
所在地、東京府東京市本所区本所中 (現墨田区押上1-1-4) 設置者、東武鉄道。開業日、1902年4月1日。東京名所の電波塔の完成で現呼称へ。呼称変更を繰り返す駅です。
「東武鉄道」が都心乗り入れをめざして、北千住駅~久喜駅間を開業してから3年後の1902(明治35)年4月、「吾妻橋線」新設時の終着地の「吾妻橋駅」でスタートした。「吾妻橋」は隅田川に架かる橋梁・吾妻橋が由来です。当時は「新橋」(東海道線)や「両国橋」(総武鉄道線)、「水道橋」(甲武鉄道線)のように、橋梁名の採用は多々見られました。
2年後の1904(明治37) 年4月に曳舟駅~亀戸駅間の「亀戸線」が「本線」として開通すると、盲腸線の当駅方面を経由せずに、曳舟駅から一気に総武鉄道(現JR総武線) 両国橋駅(現両国駅)まで乗り入れます。すると曳舟~当駅間の盲腸線は不要となり、同日付でいったん廃止されます。
ところが、1908(明治41) 年3月、曳舟駅~当駅間が貨物線として新たに開業(東武鉄道 HPでは当駅の開業を1902年としているので継続駅扱いとした)すると当駅は復活。1910 (明治43)年3月には「浅草駅」と改称して旅客営業を再開するのですが、駅舎は関東大震災によって焼失してしまうのです。
新駅舎は本社を兼ねた2階建てで、浅草の玄関口駅として位置付けました。1931(昭和6)年5月に隅田川を越えた当駅~浅草雷門駅間(浅草花川戸線)が延伸開業すると、「浅草」を「浅草雷門駅(現浅草駅)」に譲り、地名 (当時浅草区業平橋)の「業平橋駅」へ改称する。
業平橋は平安時代の歌人・在原業平にちなむ。業平が東国に旅をした時にこの付近で亡くなった (諸説)ため、駅の東側一帯が業平橋の地名となった。近くにはセメント工場などがあり、貨物線のターミナル駅の役割も長く果たしました。
しかし役割を終えた広大な貨物基地の跡地に、東京のシンボルとなる電波塔・東京スカイツリーを建設前瞬開く武道すると、2012(平成24)年3月には呼称も「とうきょうスカイツリー駅」と変更。その後は特急も停車し、今日でも多くの観光客で賑わうのです。
本所の廃止に伴い新たな名へ - 仲條拓躬
2026/10/13 (Tue) 18:44:46
本所から錦糸町となりました。JR東日本の総武線が、本所駅を錦糸町駅に変えたのは、1915年5月1日です。所在地、東京市本所区本所錦糸町(現墨田区江東橋3-14)設置者、総武鉄道・開業日、1894年12月9日。
「本所錦糸町」は「錦糸町」に千葉県初の鉄道である私鉄「総武鉄道」 (現JR総武線) が1894 (明治27)年12月、江戸川を渡る市川~当駅間を延伸した時に「本所駅」として開業しました。
由来は区名 (本所区本所錦糸町)ですが、意味は「本来の居所」や「荘園 (貴族や社寺の私有地) の実行支配権を有していた者」とのことです。駅は隅田川に近かったため、千葉方面から着いた木材・米などを舟運で東京方面に運ぶ基地でした。
鉄道ができたとはいえ、本所~銚子間は4時間20分を要したそうです。だが、江戸川・利根川経由の船便に比べれば圧倒的に速かったのです。駅舎は現駅から西側の現ハローワーク隅田(墨田区江東橋2-19-12)付近にありましが、1907(明治40)年9月に国有化されて「総武線」となった時に現在地へ移設しました。
1911(明治44)年に「本所」を冠(接頭)に付けていた町名から、制度として本所を外すことになりました。このため「本所錦糸町」としていた町名から「本所」を取り、「錦糸町」へ改称されました。
そこで鉄道院では4年後の1915(大正4)年5月、町名にあわせて「錦糸町駅」と改称します。地名・錦糸町は「1872(明治5)年に士族小邸を合併し、新規に町としたことによります。俗称でこの辺りを『錦糸堀』と呼ばれていたことから名付けられました」(錦糸町商店街HP)。
改称は「国道14号上に市電が錦糸堀まで開通した時期と重なるので、こちらを意識したものだろうか」 (今尾恵介「消えた駅名」)とも推測する。ちなみに 「本所区」は1947 (昭和22)年、「向島区」と合併して「墨田区」が成立するまで続いたのです。
土星の衛星タイタン - 仲條拓躬
2026/10/13 (Tue) 18:43:22
土星の衛星、タイタンには、地表面に流体の海があります。メタンの海が広がっていることが分かっています。メタンは常温では気体ですが、タイタンの地表面の気温はメタンが液体として存在できるマイナス180度です。
メタンの蒸気でできた積乱雲も見つかっているので、そこではおそらくメタンが雨として降り、メタンの川が流れ、メタンの海が広がっていると考えられています。地球以外に水の海がある星として、木星の衛星には、氷の下に水の海が広がっているようです。
木星の衛星「エウロパ」の表面は厚さ3㎞の氷で覆われていますが、氷の下に液体の海が広がっている証拠が得られています。また、土星の衛星「エンケラドス」は、氷に覆われた地表の割れ目から水蒸気や氷粒子のジェットが吹き出していて、地下に液体の海と熱源が存在するのではないかと考えられています。
火星にむかし海があり、水が流れていたと考えられる地形が見つかっています。探査機が詳しく観測した結果、火星表面には、かつて水が流れていたと考えられる地形がいくつも見つかっています。
それらの水は、現在は火星の地下で永久凍土のような形で残っていると考えられ、マグマの熱などに熱せられ溶けている場所では、ひょっとしたら微生物がいるのではないかと考える研究者もいます。
水のある惑星は、地球以外には、太陽系の外の惑星に水があるかもしれません。惑星は太陽のような中心星 (恒星)のまわりを回っています。中心にある恒星の温度が高すぎたり、距離が近すぎると水は蒸発してしまい、逆に温度が低すぎたり、遠すぎると凍ってしまいます。
恒星の温度と距離が、液体の水が存在できるのにちょうど良い「ハビタブルゾーン (生命居住可能領域)」にあることが、惑星に生命が存在する1つの条件とされています。太陽系の外にも惑星が続々と見つかっており、今後の研究が期待されています。
海を描いた様々な作品 - 仲條拓躬
2026/10/13 (Tue) 18:41:15
古今東西の文学者が海からインスピレーションを受けました。紀元前にはホメロスの叙事詩『オデュッセイア』 があり、大航海時代以降は、海洋文学も盛んになりました。デフォーの『ロビンソン・クルーソー』、スウィフトの『ガリバー旅行記』は世界中の海で覇権を握ったイギリスの作品です。
アメリカではメルヴィルの『白鯨』、ヘミングウェイの 『老人と海』が有名です。『海底二万里』はフランス人ベルヌのSF小説で、『コンティキ号探検記』はノルウェーの探検家、ヘイエルダールによる大ベストセラーです。
日本にも、海をテーマにした文学があります。『万葉集』では、海に関する歌が数多く詠まれています。『万葉集』4536首中53首は海に関する歌だという説もあります。また江戸時代の俳人・松尾芭蕉は、『奥の細道』で、かつて潟湖として美しい景色を誇った象潟を訪れて句を残しています。
日本三景の1つ・松島は、その美しさに圧倒されて、歌に残すことができませんでした。明治以降の作品としては、葉山嘉樹 『海に生くる人々』小林多喜二『蟹工船』、井伏鱒二『ジョン万次郎漂流記』などが挙げられます。
海を描いた絵画作品といえば、モネの『印象・日の出』が有名です。「印象派」の由来となったモネの『印象・日の出』が有名です。光の画家・ターナーは『戦艦テレメール号』など、海の絵を多く描いています。
日本では、葛飾北斎が浮世絵『富嶽三十六景』で、海をはじめとした日本の津々浦々の風景を描き出しました。海が印象的な映画の、『ジョーズ』や『グラン・ブルー』では、物語の大部分が海を舞台に繰り広げられます。
素潜り競争を描いた『グラン・ブルー』、人食いザメの恐怖を描いた 『ジョーズ』のほかにも、地中海ヨットクルーズが印象的な『太陽がいっぱい』、ローマ軍のガレー船が登場する『ベン・ハー」などがあります。
近年では、大ヒットした『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズや豪華客船の沈没を背景にした恋愛映画『タイタニック』が挙げられます。
憲法9条についての考え - 仲條拓躬
2026/10/13 (Tue) 18:37:43
日本国憲法は占領国アメリカが10日足らずで作成したものです。それを一度も改正せずにいるのですから、余程素晴らしい憲法なのか洗脳されて呪縛が解けないのか解りません。ちなみに日本と同盟国で同じく負けたドイツの憲法は、既に51回も改正されています。イタリアも12回改正しています。
どの国も、憲法を作成するのは戦後の日本と違って、時間をかけて真剣に作成したでしょう。現実に合わなくなれば、それを変えていくのは自然のことだと思います。具体的には、何をどう変えたと言う事は、国によって千差万別です。
例えばドイツでは、占領されている時に禁止されていた軍隊を持つ事を、占領が終わってから憲法に明記改正を行なっています。憲法改正が必要かどうかは、その国の置かれている状況で違ってくるとは思います。
旧西ドイツが軍隊をもつことを憲法に明記した理由は、ソ連と米国が対立する中で、西ドイツは東側と接していなかったから、どうしても自衛軍をもって防衛しなければならない。日本と違うのは、自衛軍を所持する以上は国民を誤魔化す事はせずにきちんと憲法で示したのです。
日本には自衛隊という組織があります。その自衛隊が日本国を守っています。この自衛隊は軍隊かどうか結論から言うと、軍隊だと思います。政府の見解というのは「自衛のための最低限必要な実力をもった部隊」であって、軍隊ではないと言っていますが、それは子供騙しです。その子供騙しに洗脳されていると思われる憲法改正に反対の人がいます。
戦争は2度としたくない、と言っています。そんなの当たり前です。軍隊というのは、戦争を行うことのできる戦力をもつ組織の事です。外国の軍隊が攻めてきたときに、対等に戦える組織です。そう考えれば、自衛隊というのは誰がどう見ても軍隊です。自民党は国民を誤魔化すのをいい加減やめてきちんと議論して欲しいと思うのです。
昭和26年9月8日は、敗戦日本が独立国として、世界の仲間入りができた輝ける日です。全面講和か多数講和かをめぐって議論がありましたが、日本政府はアメリカの方針にそって、多数国との講和でよしとしてサンフランシスコでこの日、講和条約に調印したのです。
それと同時に日米安保条約が調印され、日本はアメリカの極東戦略体制下の一国に組み入れられてしまったのです。なぜ同時だったのかといえば講和条約が成立した時点でアメリカ軍が日本を占拠する大義名分はなくなったからです。しかし、アメリカにとってアメリカ軍の日本駐留は、共産主義勢力との世界的戦略の観点から必要でした。
つまりアメリカ軍はこの時に、日本占領軍から在日駐留軍に変貌したのです。戦争放棄を定めた日本国憲法第9条は、マッカーサーの直接の指示を受けてGHQの民生局のチャールズ・ケーディス次長を中心に作成した条項で、どこから見ても米国製です。日本に戦争を放棄させ、安全保障をアメリカ頼みにさせたのはアメリカです。
今後どう判断すべきは、日本の国民が判断すべき問題なのです。占領下にアメリカの手によって起草された日本国憲法は、その後、冷戦が表面化したため、起草者であるアメリカ自らの手で拡大解釈され、平和憲法の趣旨を大きく逸脱させられてしまったのです。
しかもその後の国際情勢の変化とアメリカの世界戦略の変化により、憲法第9条の拡大解釈は歯止めなく進み、もはや憲法第9条は蔑ろにされているのです。この状態を放置しておくことは、法治国家としての日本をモラルハザードに追い込むばかりか、アメリカの軍事戦略に沿った日米同盟体制を、黙って許すことになるのです。
それでも日本国は独立国として胸を張れるのでしょうか。日本の奴隷のような将来にたいする懸案はこの時から始まっていたのです。私は今日の国際情勢や国内事情について、特別の資料といったものを何ひとつ持っていません。国民の大部分が私と同じように、日々の新聞や雑誌から天下の形勢を推測しているものに過ぎないでしょう。
そしていつも半信半疑です。確実にわからないことばかりだから、見当違いもあるだろうし、余計な憶測もあるだろう。石原莞爾平和思想研究会の会長としてではなく一個人の話として聞いていただきたい。日本はいまなお占領されています。無条件降伏をした国だからです。占領軍の命令や指示は、日本国すべての法律、国会の上にある絶対的なものです。
当たり前のことなのですが、我々はこの事実を忘れているのではないでしょうか。占領政策の巧みさ、日本人のあきらめ、どうにでもなれ、自分さえよければ、戦時中の抑圧に対する反作用、さまざまの理由があると思います。終戦直後から、「負けてよかった」という声も聞かれたが、こういう心理状態の上に、巧妙な政治劇が行なわれてきたのでしょう。
売国奴、吉田茂首相はサンフランシスコで、周知のとおり講和条約と安全保障条約に調印しました。それは重光外相が、ミズリー号上で降伏文書に調印したその延長であり、敗戦の最終判決書への無条件降伏だったのです。非常に美しい言葉によって飾られた完敗に違いなかったと私は思っています。
民主党から分離した党は、憲法改正に前向きでした。自民党以外の政党では、「憲法改正」ではなくて、「創憲」とか「加憲」とか言っていますが、条文を足すというのも憲法改正だから、同じようなものです。日本維新の会は自民党に近い考え方をしているのです。
立憲民主党は、昔の、憲法を護れ「護憲」と言っていた社会党出身の議員から、憲法改正に前向きだった民社党出身議員、さらに自民党を割って出た保守系の人々や、石原莞爾平和思想研究会と心をひとつにしていた日本新党など色々な議員が集まっているのです。だから、憲法改正の声は野党のなかでは一番大きいのです。
公明党も改正に前向きですが、9条などについては、自民党から少し距離があって、微妙な立場です。公明党は立党以来、ずっと「護憲」で通してきた政党ですから、さて、どうするのでしょうか。もちろん共産党は改正反対です。大事なのは憲法9条ではありません。
日本国がこれから国際社会の中で、生き残るにはどうしたらいいのか、貿易立国としてやっていくには、どうすればいいのか、尊敬される国になるにはどうすればいいのか、それらのためには何をしたらいいのかを、考えることが大切なのです。その結果、9条が現実的でなければ変えればいいし、護ったほうがよければ、護ればいいのです。
ようするに、最初から「憲法を変えてはダメだ」から始めるのは可笑しいと思うのです。憲法のために国民がいるのではなく、国民のために憲法はあるのです。憲法のために日本国があるのではなく、日本国のために憲法があるのです。
日本国のため、日本の国民のためになる憲法はどうか、国際情勢も国内も、常に時代は動いているのです。そのなかで、臨機応変に対応するのが、生き残るための賢い選択というものです。日本が世界のなかで生き残るための条件、貿易立国として生き続けるためにはどうすべきかを、きちんと考えることが大切だと思うのです。