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麻酔薬の進歩 - 仲條拓躬

2026/10/13 (Tue) 18:47:08


和歌山県紀の川市には、「青洲の里」という道の駅があります。江戸時代、紀州藩の医師であった華岡青洲にちなんだものです。そこには、診療所兼住居であった春林軒や華岡青洲顕彰記念公園があり、さまざまなモニュメントがつくられています。

青洲は、世界で初めて全身麻酔を行った医師です。19世紀になるまで全身麻酔の技術はなく、手術は痛みに耐えながら受けるのが常識でした。激痛にうめき、絶叫する患者を相手に、外科医には手早い手術が求められました。

また、麻酔なしでは、できる手術も限られていました。「眠っている間に痛みを感じさせることなく体を切り開き、再び縫い閉じて目を覚ます」などという芸当ができるとは、当時は誰も想像できなかったに違いないでしょう。

医師である父を幼い頃から見ていた青洲は、自分も将来は医師になり、困っている人を助けたいと考えていました。青洲が取り組んだのは、数々の薬草を用いた麻酔薬の開発でした。痛みのない手術を実現するためです。

1804年、青洲は苦心の末、ついに麻酔薬の通仙散を発明し、全身麻酔によって乳がんの摘出に成功します。青洲の人体実験は、自身の妻と母にも行われました。二人は、自らの体で全身麻酔を試してほしいと青洲に申し出たからです。

青洲はその後、100人以上の乳がん患者に全身麻酔手術をして実績を上げました。多くの弟子が全国から集まり、青洲のもとで学んだのです。だが、青洲の開発した全身麻酔薬は用量の調節が難しく、世界に広まることはなかったのでした。

全身麻酔が広く普及するきっかけをつくったのは、アメリカの歯科医たちでした。青洲が初めて全身麻酔を行った、その約40年も後のことです。18世紀後半から19世紀にかけて、亜酸化窒素という気体がパーティーやショーなどで使われていました。

この気体を吸うと酩酊したように笑いが止まらなくなるため、「笑気ガス」とも呼ばれていました。若者たちは夢見心地の状態になり、怪我をしてもその痛みに気づかなかったのです。この様子を見た歯科医のホレス・ウェルズは、ある妙案を思いつくのです。

この気体があれば、痛みを伴わずに歯の治療ができるのではないかと考えたのです。ウェルズはまず、自分自身でその効果を試しました。笑気を自ら吸いこみ、意識を失っている間に友人のジョン・リグズによって親知らずを抜歯されたのです。

驚くべきことに、痛みは全くなかったのです。その後、実際に笑気を多くの患者に使い、その効果を確信したウェルズは、1845年1月に公開の場で実演を試みました。場所は、ボストンのマサチューセッツ総合病院です。

名門ハーバード・メディカルスクールの最たる関連病院です。だが、不運なことにウェルズの実演は失敗に終わったのです。聴衆が見守る中、手術中に患者は痛みを訴え、悶え苦しんだのです。「ペテン師」「ごまかし」とウェルズに非難は集中しました。

真面目で努力家だったウェルズは再び実験を繰り返しましたが、信頼を回復することはできなかったのです。ウェルズの実験がなぜうまくいかなかったのか。笑気の量や純度の問題なのか、あるいは気候によるものなのか。それは今も謎です。

一方、ウェルズの公開実験で助手を務めていたのが、同じ歯科医のウィリアム・モートンだった。ウェルズの失敗を見たモートンは、笑気ではなくエーテルを選んで実験を行いました。エーテルの蒸気にも笑気に似た効果があり、「エーテル遊び」という集会が催され、やはり娯楽の道具として使われていたのです。

自分の患者にエーテルを使い、痛みのない手術が行えることを確認したモートンは、1846年、ウェルズと同じ場所で公開実演を試みました。ウェルズの失敗からわずか一年後のことです。結果は大成功だったのです。

患者は全く痛みを感じることなく、あごの腫瘍を切除されたのです。このことは大きく報道され、麻酔法が普及する第一歩になったのです。その後、エーテルには引火の危険性があることから、より安全なクロロホルムも吸入麻酔薬として用いられるようになりました。

むろんエーテルもクロロホルムも、過量に投与すると体に重篤な副作用を引き起こすことがあります。そこで、気体の濃度を調整できる吸入器をつくり、麻酔の安全性を高めたのが、イギリスの医師ジョン・スノウです。コレラの原因を見抜いた医師です。

現在は、さらなる麻酔薬の進歩により、安全性の高い複数の薬を組み合わせ、症例に応じて使い分けられるようになっています。麻酔に関連する事故は極めて少なくなり、麻酔科医の管理のもと、外科医は10時間、20時間といった長い手術も行えるようになっているのです。

とうきょうスカイツリー駅について - 仲條拓躬

2026/10/13 (Tue) 18:45:57


橋梁名から新東京名物のシンボル名に、吾妻橋から浅草、浅草から業平橋と東武鉄道・伊勢崎線の名称が変わりました。そして、業平橋から、とうきょうスカイツリー駅、2012年3月17日。業平橋駅←浅草駅=1931年5月25日。浅草駅←吾妻橋駅=1910年3月1日。

所在地、東京府東京市本所区本所中 (現墨田区押上1-1-4) 設置者、東武鉄道。開業日、1902年4月1日。東京名所の電波塔の完成で現呼称へ。呼称変更を繰り返す駅です。

「東武鉄道」が都心乗り入れをめざして、北千住駅~久喜駅間を開業してから3年後の1902(明治35)年4月、「吾妻橋線」新設時の終着地の「吾妻橋駅」でスタートした。「吾妻橋」は隅田川に架かる橋梁・吾妻橋が由来です。当時は「新橋」(東海道線)や「両国橋」(総武鉄道線)、「水道橋」(甲武鉄道線)のように、橋梁名の採用は多々見られました。

2年後の1904(明治37) 年4月に曳舟駅~亀戸駅間の「亀戸線」が「本線」として開通すると、盲腸線の当駅方面を経由せずに、曳舟駅から一気に総武鉄道(現JR総武線) 両国橋駅(現両国駅)まで乗り入れます。すると曳舟~当駅間の盲腸線は不要となり、同日付でいったん廃止されます。

ところが、1908(明治41) 年3月、曳舟駅~当駅間が貨物線として新たに開業(東武鉄道 HPでは当駅の開業を1902年としているので継続駅扱いとした)すると当駅は復活。1910 (明治43)年3月には「浅草駅」と改称して旅客営業を再開するのですが、駅舎は関東大震災によって焼失してしまうのです。

新駅舎は本社を兼ねた2階建てで、浅草の玄関口駅として位置付けました。1931(昭和6)年5月に隅田川を越えた当駅~浅草雷門駅間(浅草花川戸線)が延伸開業すると、「浅草」を「浅草雷門駅(現浅草駅)」に譲り、地名 (当時浅草区業平橋)の「業平橋駅」へ改称する。

業平橋は平安時代の歌人・在原業平にちなむ。業平が東国に旅をした時にこの付近で亡くなった (諸説)ため、駅の東側一帯が業平橋の地名となった。近くにはセメント工場などがあり、貨物線のターミナル駅の役割も長く果たしました。

しかし役割を終えた広大な貨物基地の跡地に、東京のシンボルとなる電波塔・東京スカイツリーを建設前瞬開く武道すると、2012(平成24)年3月には呼称も「とうきょうスカイツリー駅」と変更。その後は特急も停車し、今日でも多くの観光客で賑わうのです。

本所の廃止に伴い新たな名へ - 仲條拓躬

2026/10/13 (Tue) 18:44:46


本所から錦糸町となりました。JR東日本の総武線が、本所駅を錦糸町駅に変えたのは、1915年5月1日です。所在地、東京市本所区本所錦糸町(現墨田区江東橋3-14)設置者、総武鉄道・開業日、1894年12月9日。

「本所錦糸町」は「錦糸町」に千葉県初の鉄道である私鉄「総武鉄道」 (現JR総武線) が1894 (明治27)年12月、江戸川を渡る市川~当駅間を延伸した時に「本所駅」として開業しました。

由来は区名 (本所区本所錦糸町)ですが、意味は「本来の居所」や「荘園 (貴族や社寺の私有地) の実行支配権を有していた者」とのことです。駅は隅田川に近かったため、千葉方面から着いた木材・米などを舟運で東京方面に運ぶ基地でした。

鉄道ができたとはいえ、本所~銚子間は4時間20分を要したそうです。だが、江戸川・利根川経由の船便に比べれば圧倒的に速かったのです。駅舎は現駅から西側の現ハローワーク隅田(墨田区江東橋2-19-12)付近にありましが、1907(明治40)年9月に国有化されて「総武線」となった時に現在地へ移設しました。

1911(明治44)年に「本所」を冠(接頭)に付けていた町名から、制度として本所を外すことになりました。このため「本所錦糸町」としていた町名から「本所」を取り、「錦糸町」へ改称されました。

そこで鉄道院では4年後の1915(大正4)年5月、町名にあわせて「錦糸町駅」と改称します。地名・錦糸町は「1872(明治5)年に士族小邸を合併し、新規に町としたことによります。俗称でこの辺りを『錦糸堀』と呼ばれていたことから名付けられました」(錦糸町商店街HP)。

改称は「国道14号上に市電が錦糸堀まで開通した時期と重なるので、こちらを意識したものだろうか」 (今尾恵介「消えた駅名」)とも推測する。ちなみに 「本所区」は1947 (昭和22)年、「向島区」と合併して「墨田区」が成立するまで続いたのです。

土星の衛星タイタン - 仲條拓躬

2026/10/13 (Tue) 18:43:22


土星の衛星、タイタンには、地表面に流体の海があります。メタンの海が広がっていることが分かっています。メタンは常温では気体ですが、タイタンの地表面の気温はメタンが液体として存在できるマイナス180度です。

メタンの蒸気でできた積乱雲も見つかっているので、そこではおそらくメタンが雨として降り、メタンの川が流れ、メタンの海が広がっていると考えられています。地球以外に水の海がある星として、木星の衛星には、氷の下に水の海が広がっているようです。

木星の衛星「エウロパ」の表面は厚さ3㎞の氷で覆われていますが、氷の下に液体の海が広がっている証拠が得られています。また、土星の衛星「エンケラドス」は、氷に覆われた地表の割れ目から水蒸気や氷粒子のジェットが吹き出していて、地下に液体の海と熱源が存在するのではないかと考えられています。

火星にむかし海があり、水が流れていたと考えられる地形が見つかっています。探査機が詳しく観測した結果、火星表面には、かつて水が流れていたと考えられる地形がいくつも見つかっています。

それらの水は、現在は火星の地下で永久凍土のような形で残っていると考えられ、マグマの熱などに熱せられ溶けている場所では、ひょっとしたら微生物がいるのではないかと考える研究者もいます。

水のある惑星は、地球以外には、太陽系の外の惑星に水があるかもしれません。惑星は太陽のような中心星 (恒星)のまわりを回っています。中心にある恒星の温度が高すぎたり、距離が近すぎると水は蒸発してしまい、逆に温度が低すぎたり、遠すぎると凍ってしまいます。

恒星の温度と距離が、液体の水が存在できるのにちょうど良い「ハビタブルゾーン (生命居住可能領域)」にあることが、惑星に生命が存在する1つの条件とされています。太陽系の外にも惑星が続々と見つかっており、今後の研究が期待されています。

海を描いた様々な作品 - 仲條拓躬

2026/10/13 (Tue) 18:41:15


古今東西の文学者が海からインスピレーションを受けました。紀元前にはホメロスの叙事詩『オデュッセイア』 があり、大航海時代以降は、海洋文学も盛んになりました。デフォーの『ロビンソン・クルーソー』、スウィフトの『ガリバー旅行記』は世界中の海で覇権を握ったイギリスの作品です。

アメリカではメルヴィルの『白鯨』、ヘミングウェイの 『老人と海』が有名です。『海底二万里』はフランス人ベルヌのSF小説で、『コンティキ号探検記』はノルウェーの探検家、ヘイエルダールによる大ベストセラーです。

日本にも、海をテーマにした文学があります。『万葉集』では、海に関する歌が数多く詠まれています。『万葉集』4536首中53首は海に関する歌だという説もあります。また江戸時代の俳人・松尾芭蕉は、『奥の細道』で、かつて潟湖として美しい景色を誇った象潟を訪れて句を残しています。

日本三景の1つ・松島は、その美しさに圧倒されて、歌に残すことができませんでした。明治以降の作品としては、葉山嘉樹 『海に生くる人々』小林多喜二『蟹工船』、井伏鱒二『ジョン万次郎漂流記』などが挙げられます。

海を描いた絵画作品といえば、モネの『印象・日の出』が有名です。「印象派」の由来となったモネの『印象・日の出』が有名です。光の画家・ターナーは『戦艦テレメール号』など、海の絵を多く描いています。

日本では、葛飾北斎が浮世絵『富嶽三十六景』で、海をはじめとした日本の津々浦々の風景を描き出しました。海が印象的な映画の、『ジョーズ』や『グラン・ブルー』では、物語の大部分が海を舞台に繰り広げられます。

素潜り競争を描いた『グラン・ブルー』、人食いザメの恐怖を描いた 『ジョーズ』のほかにも、地中海ヨットクルーズが印象的な『太陽がいっぱい』、ローマ軍のガレー船が登場する『ベン・ハー」などがあります。

近年では、大ヒットした『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズや豪華客船の沈没を背景にした恋愛映画『タイタニック』が挙げられます。

憲法9条についての考え - 仲條拓躬

2026/10/13 (Tue) 18:37:43


日本国憲法は占領国アメリカが10日足らずで作成したものです。それを一度も改正せずにいるのですから、余程素晴らしい憲法なのか洗脳されて呪縛が解けないのか解りません。ちなみに日本と同盟国で同じく負けたドイツの憲法は、既に51回も改正されています。イタリアも12回改正しています。

どの国も、憲法を作成するのは戦後の日本と違って、時間をかけて真剣に作成したでしょう。現実に合わなくなれば、それを変えていくのは自然のことだと思います。具体的には、何をどう変えたと言う事は、国によって千差万別です。

例えばドイツでは、占領されている時に禁止されていた軍隊を持つ事を、占領が終わってから憲法に明記改正を行なっています。憲法改正が必要かどうかは、その国の置かれている状況で違ってくるとは思います。

旧西ドイツが軍隊をもつことを憲法に明記した理由は、ソ連と米国が対立する中で、西ドイツは東側と接していなかったから、どうしても自衛軍をもって防衛しなければならない。日本と違うのは、自衛軍を所持する以上は国民を誤魔化す事はせずにきちんと憲法で示したのです。

日本には自衛隊という組織があります。その自衛隊が日本国を守っています。この自衛隊は軍隊かどうか結論から言うと、軍隊だと思います。政府の見解というのは「自衛のための最低限必要な実力をもった部隊」であって、軍隊ではないと言っていますが、それは子供騙しです。その子供騙しに洗脳されていると思われる憲法改正に反対の人がいます。

戦争は2度としたくない、と言っています。そんなの当たり前です。軍隊というのは、戦争を行うことのできる戦力をもつ組織の事です。外国の軍隊が攻めてきたときに、対等に戦える組織です。そう考えれば、自衛隊というのは誰がどう見ても軍隊です。自民党は国民を誤魔化すのをいい加減やめてきちんと議論して欲しいと思うのです。

昭和26年9月8日は、敗戦日本が独立国として、世界の仲間入りができた輝ける日です。全面講和か多数講和かをめぐって議論がありましたが、日本政府はアメリカの方針にそって、多数国との講和でよしとしてサンフランシスコでこの日、講和条約に調印したのです。

それと同時に日米安保条約が調印され、日本はアメリカの極東戦略体制下の一国に組み入れられてしまったのです。なぜ同時だったのかといえば講和条約が成立した時点でアメリカ軍が日本を占拠する大義名分はなくなったからです。しかし、アメリカにとってアメリカ軍の日本駐留は、共産主義勢力との世界的戦略の観点から必要でした。

つまりアメリカ軍はこの時に、日本占領軍から在日駐留軍に変貌したのです。戦争放棄を定めた日本国憲法第9条は、マッカーサーの直接の指示を受けてGHQの民生局のチャールズ・ケーディス次長を中心に作成した条項で、どこから見ても米国製です。日本に戦争を放棄させ、安全保障をアメリカ頼みにさせたのはアメリカです。

今後どう判断すべきは、日本の国民が判断すべき問題なのです。占領下にアメリカの手によって起草された日本国憲法は、その後、冷戦が表面化したため、起草者であるアメリカ自らの手で拡大解釈され、平和憲法の趣旨を大きく逸脱させられてしまったのです。

しかもその後の国際情勢の変化とアメリカの世界戦略の変化により、憲法第9条の拡大解釈は歯止めなく進み、もはや憲法第9条は蔑ろにされているのです。この状態を放置しておくことは、法治国家としての日本をモラルハザードに追い込むばかりか、アメリカの軍事戦略に沿った日米同盟体制を、黙って許すことになるのです。

それでも日本国は独立国として胸を張れるのでしょうか。日本の奴隷のような将来にたいする懸案はこの時から始まっていたのです。私は今日の国際情勢や国内事情について、特別の資料といったものを何ひとつ持っていません。国民の大部分が私と同じように、日々の新聞や雑誌から天下の形勢を推測しているものに過ぎないでしょう。

そしていつも半信半疑です。確実にわからないことばかりだから、見当違いもあるだろうし、余計な憶測もあるだろう。石原莞爾平和思想研究会の会長としてではなく一個人の話として聞いていただきたい。日本はいまなお占領されています。無条件降伏をした国だからです。占領軍の命令や指示は、日本国すべての法律、国会の上にある絶対的なものです。

当たり前のことなのですが、我々はこの事実を忘れているのではないでしょうか。占領政策の巧みさ、日本人のあきらめ、どうにでもなれ、自分さえよければ、戦時中の抑圧に対する反作用、さまざまの理由があると思います。終戦直後から、「負けてよかった」という声も聞かれたが、こういう心理状態の上に、巧妙な政治劇が行なわれてきたのでしょう。

売国奴、吉田茂首相はサンフランシスコで、周知のとおり講和条約と安全保障条約に調印しました。それは重光外相が、ミズリー号上で降伏文書に調印したその延長であり、敗戦の最終判決書への無条件降伏だったのです。非常に美しい言葉によって飾られた完敗に違いなかったと私は思っています。

民主党から分離した党は、憲法改正に前向きでした。自民党以外の政党では、「憲法改正」ではなくて、「創憲」とか「加憲」とか言っていますが、条文を足すというのも憲法改正だから、同じようなものです。日本維新の会は自民党に近い考え方をしているのです。

立憲民主党は、昔の、憲法を護れ「護憲」と言っていた社会党出身の議員から、憲法改正に前向きだった民社党出身議員、さらに自民党を割って出た保守系の人々や、石原莞爾平和思想研究会と心をひとつにしていた日本新党など色々な議員が集まっているのです。だから、憲法改正の声は野党のなかでは一番大きいのです。

公明党も改正に前向きですが、9条などについては、自民党から少し距離があって、微妙な立場です。公明党は立党以来、ずっと「護憲」で通してきた政党ですから、さて、どうするのでしょうか。もちろん共産党は改正反対です。大事なのは憲法9条ではありません。

日本国がこれから国際社会の中で、生き残るにはどうしたらいいのか、貿易立国としてやっていくには、どうすればいいのか、尊敬される国になるにはどうすればいいのか、それらのためには何をしたらいいのかを、考えることが大切なのです。その結果、9条が現実的でなければ変えればいいし、護ったほうがよければ、護ればいいのです。

ようするに、最初から「憲法を変えてはダメだ」から始めるのは可笑しいと思うのです。憲法のために国民がいるのではなく、国民のために憲法はあるのです。憲法のために日本国があるのではなく、日本国のために憲法があるのです。

日本国のため、日本の国民のためになる憲法はどうか、国際情勢も国内も、常に時代は動いているのです。そのなかで、臨機応変に対応するのが、生き残るための賢い選択というものです。日本が世界のなかで生き残るための条件、貿易立国として生き続けるためにはどうすべきかを、きちんと考えることが大切だと思うのです。

名高い海戦といえば - 仲條拓躬

2026/10/05 (Mon) 20:23:53


帆とオールを備えたガレー船の「衝角」で攻撃しました。古代地中海では、帆とオールを備えた「ガレー船」同士が戦いました。紀元前480年、ギリシア都市国家連合艦隊200隻は、サラミス海峡で、ペルシア帝国の艦隊1000隻を迎え撃ちました。

ギリシアのトライリーム (三段權船) は狭い海峡で機動力を発揮し、船首に突き出た「衝角」で敵船体に穴を開けて沈没させ巨大艦隊を撃破しました。この「サラミスの海戦」の勝利が、ペルシアの覇権からギリシア都市国家を解放させたのです。

近世ヨーロッパでは、どの艦隊が強かったのかといいますと「アルマダの戦い」では、当時無敵のスペインがイギリスに破れました。1588年、当時、最強の海洋帝国スペインはイギリス侵攻に乗り出しました。海軍の整備に熱心なエリザベス女王を叩くためでした。

ところが、船足が速く砲戦が得意なイギリス艦隊は、砲撃のあとに敵船に乗り移るスペイン得意の戦い方をさせず、英仏海峡のグラヴリンヌにおいて無敵艦隊(アルマダ)を撃ち破ったのです。「レパントの海戦」では火力の差が勝敗を分けました。

1571年、キリスト教徒の神聖同盟艦隊は、オスマン帝国の艦隊とギリシア西部のレパント沖で激突しました。16世紀のはじめ頃は軍船へ火力の導入が進んでいた時代で、神聖同盟側は大砲や火縄銃の装備が厚く、東地中海を圧倒していたオスマン艦隊に勝利し、イスラム勢力の西方への圧力をしのぐことができたのです。

有名な「トラファルガーの戦い」は、皇帝ナポレオンが制海権を失った戦いです。ナポレオンがヨーロッパ支配を進めていた1805年、スペイン南部トラファルガー岬沖でフランス・スペイン連合艦隊33隻とイギリス艦隊27隻が激突しました。

イギリス艦隊を率いるネルソン提督は連合艦隊を戦列突破で分断する戦術を取り勝利。以後、イギリスは世界での海上優位を確立したのです。日本史に残る名高い海戦といえば、壇ノ浦の戦いでしようか。

1185年、源氏と平家は、関門海峡の海上で決戦の場を迎えました。両軍が使うのは櫂を使った小型船です。はじめ平家方は引き潮の流れを利用して源氏に攻めかかります。接近戦が互角のまま推移するうち、やがて、潮の流れは逆向きになります。

源氏を率いた源義経はこの変化を予測していました。自軍に有利となった潮の流れを利用し源氏は勝利しました。日本の支配をめぐった治承・寿永の乱は終わりを迎え、源氏は武家政権を樹立したのです。

大航海時代が後世に与えた影響 - 仲條拓躬

2026/10/05 (Mon) 20:22:24


イタリア独壇場の香辛料取引に、新ルートの開拓で挑みました。大航海時代は、スペインとポルトガルによる東方貿易の新たなルートを見つける試みから始まりました。インドや東南アジアで栽培される香辛料を主要な商品とするもので、当時は、地中海を経由するイタリア商人の独壇場になっていました。

新たなルートの開拓を後押ししたものには、地中海と北欧の優れた造船技術が組み合わさって帆船が進化したことや、羅針盤や銃砲などの新しい技術が航海の助けになったこともありました。

大航海時代の立役者は、マゼランでしょう。地球が1周できることを証明しました。16世紀初め、マゼラン指揮下の船隊は、スペインから西回りで現在のインドネシアにある香料諸島にたどり着き、3年あまりをかけて帰還しました。

マゼラン自身を含め、多くの船員が命を落とした困難な航海でしたが、広大な太平洋を発見し、地球が1周できることを証明した歴史的意義のある世界周航だったのです。大航海時代以前の一部の知識人は、地球が丸いということを知っていました。

地球が丸いことを最初に唱えたのは、紀元前6世紀頃のギリシア人です。丸みを帯びた水平線から推測したと言われています。また、コロンブスはイタリアの天文学者トスカネッリから、西へ行けばインドにたどり着けると聞き航海を決意したと言います。

ちなみに、紀元前3世紀にはギリシア人のエラトステネスが、2地点の太陽の角度の違いから地球の直径を約4万kmと計算しています。大航海時代が後世に与えた影響は、新大陸の発見と新しい交易ルートの確立です。

コロンブスは大西洋を横断して新大陸アメリカ発見の端緒を開き、ヴァスコ・ダ・ガマはアフリカ大陸南端をまわりインドへ向かう航路を確立しました。マゼランが通った海路は20世紀に入るまで大西洋と太平洋を結ぶ唯一の道でしたし、クックは幻の南方大陸「オーストラリア」を発見するなど、当時の太平洋の謎をいくつも解き明かしました。

経度の測定を可能にした「時計職人」、海上で東西の位置を知る「経度」の測定方法は長らくなく、イギリスでは1714年に2万ポンドもの賞金で公募が行われました。これに応えた1人が時計職人のジョン・ハリソンです。

船上でも狂わない時計 「クロノメーター」を作り、就航先で正午に時計を見れば、母港との時差が分かることから、経度の測定を可能にしました。開発には40年余りかかりましたが、「1日に10分は狂う」という当時の時計の常識を覆し、誤差は6週間でたった5秒。みごと賞金を射止めたのです。

終戦後に自己主張した石原莞爾 - 仲條拓躬

2026/10/05 (Mon) 20:20:49


終戦後、石原莞爾は自らの見解を堂々と主張したと伝えられています。極東国際軍事裁判では、山形県酒田市まで出張して、吹浦町西山で病床にあった石原莞爾を尋問するための臨時法廷が開かれました。国立国会図書館の資料目録などにも、石原莞爾の出張訊問が酒田市で昭和22年5月1日から2日に行われたことが確認できます。

元野田市議会議長の戸辺栄一氏は、その時ちょうど農繁期であったため、出かけることができなかったそうです。後日、戸辺氏が石原莞爾平和思想研究会元出納長の仲條立一氏から聞いた話によれば、法廷は昭和22年5月1日から2日にかけて酒田市の臨時特設法廷で開かれたとのことです。

その際、ノースクロフト判事が「尋問に先立って、何か言うことはないか」と述べたのに対し、石原は次のように語ったと記憶されています。「満州事変の中心は自分である。錦州問題にしても、満州建国の問題にしても皆自分であるのに、なぜ私を戦犯として逮捕しないのか不思議である」

すると、判事や検事は慌てて、「あなたは参考人として、こちらの質問にイエスかノーで答えればよい」と応じたといいます。これに対して石原は、さらに次のように述べたとされています。「私は僭越ながら日本国民を代表して、日本が何十年もの長い間、アジアの諸国民に迷惑をかけたことをお詫びする。」

「日本は侵略だと非難されるが、欧米諸国が以前から行ってきたことを日本が見習ったのも事実である。しかし、日本人の心の底にアジア解放の理想があったことも確かである。植民地であった諸国が、このたびの戦争後に独立を獲得したことによって、日本人の願いは達せられたのではないか。」

「東條が権力を振るったといっても、マッカーサーの権力には及ばない。東條は東亜連盟を解散させることができなかったが、マッカーサーは簡単に解散させたではないか。私が参謀総長に任じられていたなら、今ごろはニューヨークに石原司令部を置いて、マッカーサーを顎で使っていたであろう。」

「アメリカの無差別爆撃や原子爆弾の使用は、まったく非人道的な暴虐行為であり、国際法に反するものである。私が総理大臣であったなら、アメリカに対して賠償を要求する。すでに完全に敗れていた日本に原爆を投下したのは、アメリカが日本を原爆の実験台にしたためではないか。」

「さらに、ソ連が不可侵条約を一方的に破って戦争を仕掛け、多数の捕虜を連行して酷使したことは、非人道の極みである。これを見れば、マルクスも地下で泣いているであろう。今度の裁判なるものは、馬鹿げた猿芝居だ。

「ルーズベルトはすでに亡くなっているから仕方がないが、トルーマン、スターリン、チャーチルを集め、日本からは及ばずながら私が出て、堂々と論戦すればよい。それが本当の戦争裁判である」

以上のような証言が、この出張法廷の概要であったようです。その夜は酒田の町に集まっていた外国人記者たちが喜んで騒ぎ、「敗戦後初めて堂々と自己主張した日本人がいた」と語ったとも伝えられています。

国連海洋法条約とは - 仲條拓躬

2026/09/29 (Tue) 05:48:12


日本では、水産物を獲る技術が縄文期にめざましく発達しました。人類が先史時代から多種多様な魚を食べていたことは、世界各地、日本各地で発見されている遺跡や貝塚の調査から明らかになっています。日本では縄文期に水産物を獲る技術がめざましく発達し、釣針、ヤス、モリ、網などの道具が開発されました。

貝塚からはマイワシ、カタクチイワシなどの小さな骨から、70~80㎝もあるような大型のタイなどの骨が出土しています。小魚がたくさん獲れるのは、寒流と暖流が出会う「潮目」です。寒流と暖流が出会う「潮目」は、寒流の栄養と暖流の暖かさで植物プランクトンが育ち好漁場になります。

黒潮と親潮の出会う「三陸沖」、メキシコ湾流とラブラドル海流によるカナダの「グランドバンク」、北大西洋海流と東グリーンランド海流による「北東大西洋海域」は、「世界の三大漁場」と呼ばれています。

マグロ漁は、ほとんどが遠洋漁業で獲られています。マグロ類は沿岸から外洋まで、熱帯から亜寒帯まで世界中の海に広く分布し、猛スピードで大回遊しています。そのため漁場も世界の海に広がっています。日本の漁船は、天然マグロのほとんどを大西洋、地中海、オーストラリア沖、ニュージーランド沖、赤道地域などの遠洋漁業で獲っています。

排他的経済水域は、沿岸から200海里(1海里=1852m) の水域のことです。1994年に発効した「海の憲法」と言われる「国連海洋法条約」では、海岸沿いの決められた線から12海里を「領海」、200海里を「排他的経済水域」と定めています。

沿岸国は、排他的経済水域の天然資源について排他的な管轄権を持ち、他国の漁船は入漁料を払ったりしなければ、この水域では漁ができない決まりになっています。「里山」とは、山村近くにあって、人が利用し手をかけることで保全もされてきた森林のことです。この考えを海に当てはめたのが「里海」です。

例えば、岡山県の日生は海草の一種であるアマモの里海。かつて、瀬戸内海の汚染や埋め立てで減少したアマモ場を漁民たちが種を播いて30年かけて再生したところ、魚介類の漁獲高が増加し、カキ養殖の生産も安定しました。日本各地で取り組まれている里海づくりは、世界にも広がりつつあります。


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