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洋上に先鞭をつけた唯一の企業 仲條拓躬

2025/07/28 (Mon) 18:48:32


日本で洋上風力の時代が確実に来ることを見越して動いていた企業があります。それが、再エネベンチャーのレノバです。2000年に環境・エネルギー分野のコンサル企業として創業したレノバは、2012年の「再エネ特措法」を契機に再エネ発電事業に本格参入し、太陽光や風力、バイオマスでの発電所設置の実績を着実に積み上げていきました。

今や脱炭素の期待も相まって、時価総額は地方電力を超える約4000億円に上っています。そんなレノバが洋上風力を検討し始めたのは、2015年にさかのぼります。この年、秋田県でバイオマス発電事業に出資し、地元との関係を深めるなかで、由利本荘市沖の洋上風力のポテンシャルを活かすためにいち早く動いたのです。

2017年には、このエリアに66万キロワット分の洋上風力を建設するべく、JR東日本系の企業らと3社で地元への協力要請を提出しています。当時は、洋上風力はFIT(再エネの固定価格買取制度)の対象にこそなっていました。政府の長期ビジョンもなかったため、前例のない大規模な工事が必要とされる洋上風力の案件はリスクだらけでした。

「まだ上場する前で、売上高も数億円程度のベンチャーが、事業規模が1000億円単位に上る洋上風力に挑戦していく意思決定は、社内でも議論を呼びましたし、逆に言えばそれだけ洋上の時代を確信していたということです」と当時の幹部は振り返えっています。

2018年3月、レノバの木南陽介社長は取材に対し、洋上風力発電への参入の理由について、「風が吹くエリアが限られている日本で、発電量を増やすには陸上だけでなく、洋上を活用しないといけない」と語った上で、前例のない挑戦についてこう話しています。

「確かに日本では初めてですが、風車自体は世界から調達をすれば作れてしまう。北海ではもう3000本くらい建っているように、すでに存在しているものですから。むしろ施工するのが大変で、水深100~300メートルくらいのところに、高さ200メートル近い巨大構造物をいくつも建てるという大規模工事は、大型の海洋土木工事と考えてもらった方がいいです。」

「ただ、それでもやはり世の中で初めてではない。そこが重要なのです。欧州では3000もすでに建てられていて、そのノウハウはあるわけですから」それから3年が経ち、ようやく国が洋上風力に本腰を入れ始めた。

これは、政府による長期ビジョンの策定という意味では、レノバにとって大きな追い風といえますが、一方で、政府のコミットメント強化による逆風もあります。政府が洋上風力の「促進区域」を設定することで、その区域を30年間占用する発電事業者を公募する仕組みを取ったためです。

つまり、実際の事業開始には、政府の入札を勝ち抜かなければいけなくなったのです。今や、レノバが取り組む由利本荘沖の2区域を含め、促進区域に設定された4区域は、電力会社や商社、大手ゼネコン、さらにはオーステッドのような外資までも入り乱れて名乗りを上げる混戦状態となったのです。

例えば由利本荘沖だけでも、①レノバ、東北電力など4社、②中部電力、三菱商事系ら3社、③九州電力、独RWE系連合、④オーステッド、日本風力開発ら3社、⑤JERA(ジェラ。東電・中部電の火力統合会社)、ノルウェーのエクイノールら3社など、これでもかとばかり大手企業が公募に参加しています。

他の2区域でも、また違う組み合わせで参入企業が入り乱れており、外資系メーカー幹部が「ここまで日本のエネルギー会社が本気で勝負しているのは見たことがない」というレベルだといいます。

東日本大震災時の指令室 仲條拓躬

2025/07/28 (Mon) 18:47:30


東京総合指令室管内で起きた一番大きな輸送障害と言えば、東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)で、東京圏の在来線の復旧においてこの指令室が大きな役割を果たしました。そのときの様子を、資料から記載してみます。

東日本大震災は、2011年3月11日14時45分に発生しました。気象庁によれば、地震の規模(マグニチュード9.0)は国内観測史上最大で、東日本を中心に広範囲で大きな揺れや津波が観測されました。私は都内におり、北千住駅のシャッターが閉められたのを覚えています。震源からはるか遠く離れたこの地でさえも津波注意報が出ていました。

この地震ではJR東日本管内の鉄道が大きな被害を受けました。とくに深刻な被害を受けたのは、津波の被害を受けた太平洋岸を通る線区ですが、東北をはじめ関東・甲信越を通る広範囲の地震計で一定以上の地震加速度が観測されたため、多くの列車が運転見合わせとなり、鉄道輸送が麻痺しました。

東京圏でも多くの鉄道が一斉に停まり、鉄道で帰宅できなくなった帰宅困難者が道路にあふれました。東日本大震災による鉄道の被害や対応について記した資料には、JR東日本が編集し、2013年に発行した『東日本大震災対応記録誌』や『東日本大震災証言集』があります。どちらも当時の様子の詳細を知ることができる貴重な資料です。

後者の証言集は、当時さまざまな職場にいた社員が記した証言をまとめたものですが、その中には「施設指令が一丸になって取組んだこと」という保線課副課長(施設指令)の証言があり、地震発生時における東京総合指令室の様子が詳しく記されています。

該当部分は長いので要約します。地震発生後には大きな揺れがあり、天井の照明設備から埃がヒラヒラ降りてくるのを見て、天井が落下しないかと感じた。棚からはファイルや資料が落ち、「ガタンガタン」と聞き慣れない物音がした。誰かが「余震がくるので注意しろ、天井にも注意しろ」と言った。

東京総合指令室管内に設置された2カ所の地震計のすべてが、運転中止か速度規制の規制観測値を観測し、プレダスの警告音が鳴り響いた。頭が真っ白になり、しばらく何をしたらいいのかわからない放心状態だった。上司から「まず家族および同僚の安否確認をすること」と指示を受け、電話で安否を確認し、少し落ち着いた気分になれた。

そのあと東京総合指令室内に対策本部が設置され、まず列車などにいるお客さまを救出し、そのあとに線路点検を行ない、運転再開させるという指示が出た。細かい部分は省略しましたが、この証言を読むと、このような非常時でも冷静な判断をして指示を出し、部下を落ち着かせようとした人がいたことがよくわかります。

この指令室が震災後の復旧作業で重要な役割をしたことがよくわかります。それは日頃の訓練の成果なのだろうが、動揺しやすいときでも「お客さまのために」という考え方が徹底されていたようです。なお、震災当日は、東京圏の在来線のほとんどの線区で運転再開ができなかったのです。

観測された地震の規模が大きく、線路に異常がないかを施設の担当者が徒歩で確認しないと運転再開できなかったからです。たとえば山手線は、郊外に向けて放射状に延びる鉄道のハブとして機能しており、鉄道としての重要性がとくに高い線区ですが、線路点検が夕方までかかった上に、新宿から新大久保間で線路の一部が沈下したのが発見され、復旧工事に時間を要したことも一部影響し、翌朝まで運転再開できなかったのでした。

終電接続の手配を行なう 仲條拓躬

2025/07/28 (Mon) 18:46:22


東京圏では、深夜2時を過ぎると、最終列車(終電)を気にする人が増えますが、そのときは指令員が列車の接続の調整をしています。この調整は、輸送指令だけでなく、営業運輸指令も関わっています。終電の時間が近づくと、営業運輸指令が輸送指令や駅、他社線と連絡をとり合い、列車の接続調整が必要かを判断し、接続駅での発車時刻などを決めます。

輸送指令は、営業運輸指令が決めた発車時刻などの情報を関係する駅員や乗務員に伝えます。営業運輸指令は通常、高台にいますが、列車が大幅に遅れ、発車時刻の大きな変更が必要になると、関係する線区の輸送指令の近くに行きます。

たとえば上野駅では、23時40分前後に3方面の中距離最終列車(宇都宮線宇都宮行き・高崎線高崎行き・常磐線土浦行き)が発車しますが、このとき山手線や京浜東北線が遅れていると、乗り継ぎを考慮して発車時刻を後ろにずらすことがあります。その調整を、指令室が駅と連携して行なっているのです。

我々利用者から見ると、指令員のように列車の運行管理をする人は、終電のあとに「今日も一日終わった」とホッとするように思えますが、必ずしもそうではありません。むしろ緊張をすることがあるそうです。東京圏では、E電線区などの多くの線区で0時をすぎても列車が走るが、1時半前にはほとんどの線区で営業運転が終わります。

輸送指令はここでひとまず落ち着くのですが、その後に夜間工事のために架線への送電を停めるための準備を行なうので、緊張感に包まれるといいます。送電を停める前に連絡ミスがあり誤った電気の停め方をすると、場合によっては、作業員の死傷事故につながるからです。まず、終電が終着駅に到着し、車庫などに移動します。

そこで電車がパンタグラフを下げると、車庫などの現場から輸送指令に報告があります。輸送指令は電力指令に報告し、電力指令が架線への送電を停めます。これらの連絡ミスを防ぐため、復唱したり、名前が似ていて間違えやすい言葉は言い回しを工夫しています。数年前の指令員は、この連絡をするときにピリピリしていたといいます。

なお、現在はこれらの連絡がほとんどシステム化され、報告などが簡素化されたそうです。始発前も、指令員が緊張する作業があります。E電線区などの多くの線区では、始発は4時半以降だが、その30分以上前から、輸送指令の指令員はATOSなどのシステムに異常がないか確認します。

また、夜間の工事作業が無事終了しているかを確認し、異常がなく、安全が確認できれば、始発を走らせます。ただし、夜間の工事作業が時間内に終わらず始発の運転に支障があったり、安全が確認できない場合は、運転を見合わせます。こうした運転開始のための連絡が、終電後と同様に緊張するそうです。

新宿駅と東京駅を見る 仲條拓躬

2025/07/28 (Mon) 18:45:04


東京総合指令室を見学してから、実際に東京圏の在来線で列車が走り、多くの人を運んでいる様子を見ると、日常的に見ていた駅の風景がいつもとちがって見えてきます。平日の朝のラッシュにおける新宿駅と東京駅の様子を見ながら、指令員の仕事をみます。新宿駅は、ご存じのとおり、東京圏最大規模のターミナル駅です。

JRだけでなく、民鉄2社 (小田急・京王だけでなく、西武を含めて民鉄3社とする場合もある)や地下鉄3路線 丸ノ内線・新宿線・大江戸線)が乗り入れており、西武新宿駅をふくむ1日の平均乗降客数は364万人と世界最多で、200以上の出入口があることなどから、世界でもっともにぎやかな駅であるとギネス世界記録に認定されています。

JR新宿駅は、1日平均乗車人員は約15万人でJR東日本の駅でもっとも乗車人員が多いです。山手線や中央快速線、中央緩行線、埼京線、湘南新宿ラインの列車が早朝から深夜まで頻繁に行き交い、成田空港や甲府・松本、房総、伊豆、日光・鬼怒川方面に向かう特急列車も乗り入れてきます。

平日朝のラッシュ時に、JR新宿駅の7番8番乗り場に行くと、中央快速線の上り列車が平均2分間隔で到着します。中央快速線は、JRでもっとも運転間隔が短い線区です。新宿駅では、オレンジ色の帯を締めた10両編成の通勤電車が、7番8番に交互に入ってきます。

列車がホームに差し掛かってから停車までに約30秒、利用者が乗降する停車時間は約60秒、発車から列車がホームを離れるまでに約30秒、トータルで約2分。このタイミングを7番8番でずらしているから、平均2分間隔で列車が連続して発着できます。

通勤電車のドアが開くたびにホームが人であふれ、階段に人が集中して流れていくのをひたすら繰り返す。このホームには、5人の駅員が等間隔で立ち、7番8番を行ったり来たりしながら安全を確認しています。かつてはドアに人を押し込む「押し屋」と呼ばれる人もいましたが、今は混雑率が下がったためか、あまりいないようです。

発車時刻が迫り、ドアが閉まると、電車の側面で点灯していた赤いランプが一斉に消えますが、たまに駆け込んで強引に乗ろうとする人がいて、ドアが閉まらなくなり、その車両だけ赤いランプが点灯したままになります。すると駅員が駆け寄って対処します。

これだけで10秒ぐらいはすぐに経つ。中央快速線のダイヤは10秒単位で刻まれているので、わずか10秒の遅延でも輸送に影響することがあるのです。もしこのホームで異常が起きて、列車が5分でも停まれば、列車2本分の輸送力が失われてしまうのです。

現在、中央快速線で使われている通勤電車(E233系)は、10両編成の定員(座席数や床面積から計算される定員などの合計)が1480名なので、満員であれば2960名分の輸送力が消えます。実際は定員の2倍乗っていることもあるので、6000名に近い輸送力のロスとなるのです。

もしこの状況で人身事故が起きて、列車が大きく遅れたら、輸送がどれほど混乱するかは、このことからも想像できるし、駅員がピリピリした表情をしている理由もわかります。輸送が混乱すれば指令室も騒然となることでしょう。

平均2分間隔で新宿駅を発車した上り列車は、中央快速線の起点である東京駅で折り返し、下り列車となって新宿駅方面に平均2分間隔で発車します。東京駅の1番2番のりばが中央快速線のホームですが、そこを交互に列車が出入りします。

ホームには下り列車に乗務する運転士や車掌が待機しており、入ってきた上り列車が停車し、ドアが開くと、運転士や車掌が交代します。どの列車に誰が乗るかという運用はあらかじめ決まっているので、1番2番のりばで列車の先頭と最後尾が来る位置には、ほぼ2分ごとに別々の運転士や車掌が現れ、電車に乗り込むのを繰り返します。

まさに一定のリズムを刻む機械のようですが、そこに立つのも、その運用を考えるのも「人」なのです。列車が大きく遅れれば、そのリズムが崩れますが、輸送指令がダイヤのリズムをもどし、運用指令が乗務員と車両の運用を調整し、営業運輸指令がその遅れを伝える。

自然災害などで線路などの鉄道設備が壊れれば、設備指令が復旧工事を手配します。そうした対応に社員が奔走し、東京圏の在来線の輸送を陰で支えているのが、東京総合指令室なのです。

指令の声は支社長の声 仲條拓躬

2025/07/28 (Mon) 18:43:54


指令員は、異常時に迅速な対応をすることが求められますが、その上で重要になるのが情報伝達です。的確な対処をするには、異常があった現地や、線区全体の状況を正確に把握する必要があるからです。

おもに輸送指令を行なうブロックには、さまざまな情報伝達手段があり、代表的なものには、駅や乗務員区(乗務員の事務室)などと通話する指令電話や、列車にいる乗務員と通話する列車無線があります。

操作端末のテーブルには、そのための受話器も置いてありますが、指令員がデスパッチャーと呼ばれるヘッドセット(ヘッドフォンとマイクがセットになった装置)を装着して、両手で作業しながら通話することができます。また、放送用のマイクもあり、駅や乗務員区、列車の乗務員室などに同時に情報を伝える一斉放送もできるようになっているのです。

案内してくれた方によれば、指令員の間で、「指令の言葉は、支社長の言葉」と言われているそうです。指令室から列車無線や指令電話を通して伝える指令員の言葉は、それを聞く駅員や乗務員などにとっては、この指令室を代表するものになります。東京総合指令室は、JR東日本の東京支社に属し、指令員は支社長の命令を代弁することになるようです。

なお、輸送指令には、他社の指令室につながる連絡電話もあります。東京圏の在来線は、常磐線が東京メトロ千代田線、中央・総武線が東京メトロ東西線、埼京線がりんかい線と相互直通運転(相互乗り入れ)をしているので、他社との調整が必要になったときにこの連絡電話を使うのだそうです。

口頭による連絡は、指令室で長らく使われている情報伝達手段ですが、ヒューマンエラーによる伝達ミスが起きやすく、それを防ぐために復唱を行なうと、伝達に時間がかかり、対応が遅れる場合があります。このため、この指令室では、口頭以外の情報伝達手段として、ファクスや通告伝達システム、車両故障情報伝送システムなどが使われています。

ファクスは、指令員が書いた書類を駅や乗務員区に流すときに使います。例えば、常磐線のように特急列車が多い線区では、ダイヤの乱れが生じたときに、指令室の判断で特急列車とその他の列車の順序を変え、特急列車を先に行かせる事がありますが、そのままだと駅が混乱するので、指令員が順序の変更を指令計画書に書き、ファクスで駅に送信します。

通告伝達システムや車両故障情報伝送システムは、近年導入されたもので、従来、口頭で伝えていた情報を文字などに変換し、相手の端末のモニター画面に表示することができます。同じ情報を複数の場所に同時に伝えることができる上に、復唱する必要がないので、情報をより早く確実に伝えることができます。

通告伝達システムは、指令員から乗務員への運転通告や、情報を文字にして、運転台のモニター画面に文字で表示します。複数の列車の乗務員に同時に情報を伝えられるのが特徴です。車両故障情報伝送システムは、故障した車両の状態を、運用指令や車両保守部門のパソコン画面に表示するシステムです。

東京圏の在来線を走る新しい電車では、車両の故障状況を運転台のモニター画面に表示できますが、離れた場所にいる車両関連の社員も、同じ情報をパソコンで見ることができるので、的確に把握でき、乗務員への指示やアドバイスがスムーズにできるようになったといいます。

イラクに落とした劣化ウラン 仲條拓躬

2025/07/28 (Mon) 18:40:21


現在必要なものは、軍事力ではなく人道支援を中心とした安全保障だと思うのです。武力による手段は国と国との関係を決着させることは出来るかもしれませんが武力行使の過程では多くの無辜の民が戦闘に巻き込まれ、命を奪われるのです。

戦争は、弱い立場の市民を傷つけ、憎悪を生み出すものなのです。かつての湾岸戦争で米軍が使用した劣化ウラン弾の放射性物質によりイラクの多くの子どもたちが白血病などで苦しめられています。正義の戦いなどはあろう筈がないのです。

イラク第2の都市バスラに、湾岸戦争時、米軍は劣化ウラン弾を使用しました。劣化ウランは原子力発電所などから出る核廃棄物です。米軍は湾岸戦争やコソボ戦争などでも劣化ウラン弾を使用した。イラク国内には無辜の民がいたのです。

イラク領内で米軍が発射した大量の劣化ウラン弾からの放射性物質は、砂漠の砂塵に混じって周辺の村々に到達して、湾岸戦争が終わった数カ月後から、放射能の影響と思われる白血病ガン、奇形児の出産が増加しました。

患者数は湾岸戦争から何年もが経過した現在も減少していません。患者はバスラだけでなく、バスラから500キロ離れた首都バクダッドなどでも、劣化ウラン弾が原因と思われる白血病ガンなどの患者が増加しました。

子供や胎児に被害が大きいため、バスラとバクダッドに、白血病ガンを専門とする小児科・産婦人科病院が建設されています。湾岸戦争に参戦した米軍や多国籍軍の兵士にも、劣化ウラン弾が原因と思われる症状が出ています。

最近ではアフガニスタンで同様の患者が現われて米軍が劣化ウラン弾を使った可能性が指摘されています。劣化ウランの患者にアラブの伝統的なハーブ系の薬草を使った治療なども試みています。

アメリカは、劣化ウラン弾をばらまいて子供たちを病気にしただけでなく、薬の輸入を禁じて治療をさせないようにして、子供たちを殺したのです。薬があれば治る子供たちが死んでいくのを見るのが、医者として一番つらいと担当医はいう。

収容する病院はバクダッドにあり、頭や体のあちこちが膨れ上がったガンの末期症状の子供だらけで、傍らにいる母親は目もうつろで、深く悲しんでいるそうです。病院の横にはたくさんの子供お墓があるそうです。

その、お墓の上に乗って遊ぼうとする子供たちを親は怒っているのだが、今日は土の上で元気に遊んでいる子供たちも、いつ冷たくなって土の下に埋まる状態になるかもしれないと悲しんでいます。イランの子供たちは大丈夫であろうか。命の重さは同じはずです。

ネガティブオプションとは 仲條拓躬

2025/07/24 (Thu) 06:22:31


消費者被害として何の契約もしていないのに、いきなり商品を送りつけてくる悪徳業者がいます。大抵は、商品を返送しなければ、契約は成立しますだとか、商品が返送されない場合、代金はお支払いしていただきますと言う脅し文句が書かれているでしょう。

それで、注文もしていない商品の代金を振り込んでしまう被害が後を絶ちません。このように、一方的に商品を送りつける商法を「ネガティブオプション」と言います。だが、私は、実際に頼みもしない商品が届いたら、ラッキーです。

特定商取引法という法律では、商品の送付があってから、14日間業者が商品を引き取りに来なければ、自由に自分のものとして、処分することが出来ると規定されています。ただ、ここで注意してほしいのは14日間が経過するまでは、商品を使用してはいけないということです。

ニ・ニ六事件とは 仲條拓躬

2025/07/24 (Thu) 06:21:19


ニ・ニ六事件で陸軍の内容は一変しました。荒木、真崎、小畑敏四郎らの皇道派は追放され、陸軍は杉山元、海津美治郎、東條英機など、統制派の牛耳るところとなり、事件後の広田内閣で軍部大臣現役制を復活させてしまいました。以後、陸軍に歯止めが効かずかに、日中戦争から大東亜戦争へと破局への道を進むことになるのです。

このクーデタは重臣を含む政治家に深い恐怖心を植え付け、軍部にたてつく意欲を喪失させました。この恐怖心は天皇にまで及んでいるのです。『昭和天皇独白録』では天皇はこう語っています。

「私が若し(大東亜戦争の)開戦の決定に対して『べトー』(拒否権の発動)したとしよう。国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲のものは殺され、私の生命も保証できない、・・・今次の戦争に数倍する悲惨劇が行われ、果ては終戦も出来かねる始末となり、日本は亡びる事になったであろうと思う」

ニ・ニ六事件の影響はまことに深刻でした。この事件での政友会総裁久原房之助と陰のイデオローグだと言われている北一輝とも関係がありました。北一輝は1919年に『国家改造案原理大綱』(『日本改造法案大綱』として出版)を著し国家社会主義に基く日本改造を主張し、これがニ・ニ六事件をひき起こした青年将校らに聖典として信奉されました。

簡単に言えば、三年間憲法を停止して戒厳令下に革命政府を樹立して、一家の所有財産の限度額を百万円、私有地の限度時価は十万円、私企業の資本限度は一千万円とし、この限度を越えるものはすべて国家に集中し、限度を越える生産業はすべて国家の統一経営とする、というものです。

久原房之助は三土忠造の紹介で北一輝と知り合い、1931年から1932年にかけて盆暮れに二千円渡しています。事件前年には、北一輝の要求で五百円渡しました。これらは情報提供の見返りの意味もあったのでしょうが、右翼のテロから身を守る算段でもあったのです。

三井物産は昭和初年のドル買問題で右翼に脅かされて北一輝に毎年半期ごとに一万円渡しており、標的にされていた池田成彬も時々北一輝と会って五千円から三万円渡しています。総帥の団琢磨(三井合名理事長)を右翼・血盟団に暗殺された三井の自衛策なのです。

久原房之助は1931年10月の橋本欣五郎陸軍中佐、大川周期らが企画したクーデタは未遂事件、いわゆる十月事件の際、橋本欣五郎に五千円渡したとの憲兵筋の承認もありますが、森恪ほど軍部に深入りはしていません。

だが、あまり用心しないで金をばらまくのは久原房之助の癖のようで、それが政治家としての挫折の要因にもなったし、天皇側近の重臣達から危険人物視される理由となったのです。

尚、ニ・ニ六事件の首謀者らは、成功の暁には真崎甚三郎を首相に確立する計画であったが、北一輝の弟(のち代議士)によれば、北一輝はこの政権の商工大臣に久原房之助を考えていたと言います。ニ・ニ六と事件を裁いた軍法会議は一審制、非公開、弁護人ナシで、なお不分別な点が多い。

事件の背後となった真崎甚三郎大将は反乱幇助の疑いを判決で指摘されながら、結局、証拠不十分で無罪となっています。一方、北一輝については、裁判官の多数が、実際、北一輝はこの時期の決起には反対していたのでせいぜい反乱幇助くらいだ、と考えていたのだが、それが死刑の判決が下って処刑されたのです。

この時代は右翼より軍部の方が恐ろしい存在だったのです。統制派の陸軍首脳が皇道派の根を絶つために北一輝を葬ったのでしょう。大正から昭和にかけて右翼の思想的リーダとして一世を風靡したカリスマ・ファシストは54歳で命を絶たれた瞬間でした。この間に、首相は広田弘毅、林銑十郎、近衛文麿と目まぐるしく変わり、その間、日中戦争が起こり戦線は拡大していったのです。

スペイン風邪について 仲條拓躬

2025/07/22 (Tue) 19:08:03


1918年のインフルエンザ流行は「スペインかぜ」と呼ばれていますが、最初の感染がスペインで起こったわけでも、特にスペインで猛威を振るったということでもありません。 こう呼ばれた背景には第一次世界大戦があります。参戦国それぞれで厳しい情報統制が敷かれ、士気の低下につながるような情報や国としての弱みをさらす報道は封じられました。

中立の立場を保っていたスペインでは、こうした情報統制はなかったのです。スペインかぜの流行が始まった当初は、罹患率は高かったものの死亡率は低く、過去の流行とあまり変わらないように思われました。しかし、秋になると様相が変わります。流行の第二波が押し寄せた時には罹患者は数億人にもなり、数百万人が命を落としたのでした。

年末にかけていったん下火になりましたが、年が明けると再燃し、春になっても収束のめごが立たなかった。この頃になると、死者の約半数を二十代から四十代の患者が占めるようになっていきました。南半球でもほぼ時を同じくして流行が始まり、その死亡率は北と比べても大差なかったのです。

オーストラリアについては、周りを海で隔てられていることに加え、政府が入国時の検疫強化に乗り出したことで事情は異なります。これらの要因がどの程度影響したかを評価することは難しいのですが、2002年の試算によれば、南アフリカの死亡率はオーストラリアの15倍、米国でも2.5倍高かったのです。

インフルエンザは1920年にも再び世界中で猛威を振るいました。依然として死亡率は高かったが、先の流行ほどではなかった。1920年代はインフルエンザ研究にほとんど進展が見られなかった。当時はまだ顕微鏡の性能が低かったうえに、インフルエンザは人間だけの病気と考えられていたせいで動物実験も行われていなかったからです。

しかし、1930年代になると豚やフェレットなどインフルエンザに感染する動物がいることがわかり、研究に新たな道が開けました。さらに電子顕微鏡が登場し、それまで見えなかったウイルスを観察できるようになったのです。 研究の結果、ウイルスは100年間のうちに何度も表面構造をがらりと変えていることが明らかになりました。

いわゆる亜型の変化です。新しい亜型ウイルスが出現するとそれに対して抗体を持つ人はほとんどいません。このために、インフルエンザは爆発的な流行を繰り返してきました。1930年代になると、インフルエンザを引き起こすウイルスが特定されました。大流行を引き起こしていたのは「A型」インフルエンザウイルスであることもわかりました。

ただ、ウイルスが変異するせいで流行しますが、何がきっかけでそうした変異が起こるのかは謎のままでした。ウイルス性の呼吸器感染症は冬に流行することが多く、インフルエンザも例外ではありません。さらに、インフルエンザは毎年流行し、10年から40年に一度は世界的な大流行が起こります。

21世紀に入っても、1918~19年の大流行でなぜこれほどまでの被害が出たのかについての議論は続いています。一説には、この時のインフルエンザウイルスは細菌感染を併発しやすく、命に係わる重篤な肺炎を引き起こしていたのではないかとも言われている。

スペインかぜのウイルスは体の反応を過剰に引き起こすタイプで、炎症と組織の浮腫により、窒息死する患者が出たのではないかという説もあります。最近の流行では、1957年に中国で新しいウイルス株が出現し、「アジアかぜ」 と呼ばれる世界的大流行を引き起こしました。ウイルスはあっという間に世界中に広がりました。

シベリア鉄道に乗ってロシア西部に運ばれ、香港から海を渡ってシンガポールや日本にも上陸しました。まず5月にインド、6月に西ヨーロッパと米国沿岸部、7月にオーストラリアとアフリカ、9月になるとイギリスに到達しました。イングランドとウェールズでは最初の12週間で約600万人がインフルエンザを発症しました。

最初はイングランド北部に流行が集中しましたが、やがて南下して2週間後にはイングランド南部とウェールズにも広がりました。イギリス中部の都市、ブラッドフォードでは、本格的な流行が始まる前にパキスタン人のコミュニティ内で小規模な流行があったという報告が残っています。

おそらく、パキスタンからイギリスへの渡航者の中に感染者がいたのでしょう。現地の開業医らは、短期間のうちに流行が広がった原因は、病人を大勢で見舞うパキスタンの習慣にあったのではないかと考えられました。

限られたコミュニティの中で小規模な流行が起こった後に、続いて本格的な流行が発生するという「ダブルピーク」は、イギリスのシェフィールドの製鋼所やバーンズリーの炭鉱でも報告されています。現在は、インフルエンザの罹患率も死亡率も1918年以前の水準に戻り、若くて健康な成人のリスクも当時に比べればかなり低下しました。

それでも、インフルエンザが世界的に流行する感染症であることに変わりはないでしょう。 A型ウイルスが1918~19年のような流行を引き起こす可能性は残っています。危険なインフルエンザウイルスが次にいつ、どこから現れるかは誰にもわかりません。

インフルエンザウイルスは人間だけでなく野生の動物や鳥、家畜も感染し、ウイルスのやり取りが繰り返されていくため、どんなウイルス株が出現するか予測することはきわめて困難です。人間と豚が近い距離で生活している地域が多い中国では、いつ新型インフルエンザが現れてもおかしくないと言われているのです。

インフルエンザの第一号患者 仲條拓躬

2025/07/22 (Tue) 19:06:59


1918年の秋に世界で猛威を振るったインフルエンザは、5000万人もの命を奪ったと言われています。これは、第一次世界大戦の死者数を上回る途方もない数字です。この流行は人々にとって思いもよらない出来事だったことでしょう。それまでのインフルエンザは恐れるほどの病気ではなかったからです。

幼い子供や高齢者、何らかの免疫疾患を持つ人たちを除けば、インフルエンザで人が死ぬことはほとんどありませんでした。しかし、1918年に状況は一変しました。健康な若者もインフルエンザでどんどん亡くなっていったのです。こんなことは初めてでした。

「第一号患者」は誰だったのか?歴史学者の間では、不幸にもこの病気にかかった最初の一人のせいで、その後の世界的な惨禍がもたらされたとする意見があります。その「犯人」つまり、このインフルエンザにかかった患者第一号と目されているのが、カンザス州の米軍基地で料理番をしていた兵士、アルバート・ギッチェルです。

ギッチェル本人がどこから病気をもらってきたかについては、これといった定説はありません。1918年3月11日、ギッチェルは喉の痛みと頭痛、発熱などの症状を訴えました。数時間のうちに軍の診療室は似た症状を訴える兵士たちであふれかえり、1ヵ月後には患者全員を寝かせる場所を確保するために、飛行機の格納庫を開放する事態になりました。

その間も、健康状態に問題がないとされた兵士たちはヨーロッパ戦線へと送られていきます。彼らの一部がウイルスを運んだ可能性は否定できません。「ギッチェル患者第一号説」は状況をうまく説明できそうですが、もちろん異論もあります。

1917年にフランス北部のエタプルに駐留していたイギリス海外派遣軍の一時滞在キャンプから流行が始まったとする説もあります。大勢の人間が滞在するキャンプのすぐそばでは豚やニワトリが飼われていたため、 新型インフルエンザウイルスが誕生するには絶好の環境だったようです。

ヒトのインフルエンザウイルスの主な保有宿主は人間ですが、豚などの人間以外の哺乳類や、ニワトリをはじめとする鳥類もまた、ある種のヒト型インフルエンザウイルスの発生源となっています。 閉め切った空間に大勢の人間が集まると主に空気感染により広がる。

さらに、ウイルスは宿主の体外に出ても数日間は生き延びることがあるため、ドアノブの表面なごウイルスが付着したところに触れた手を介して感染します。だから、現代社会では会社勤めをしていたり、公共交通機関を頻繁に利用する人がインフルエンザにかかりやすいわけです。

1918年のインフルエンザの世界的流行がどこから始まったにせよ、流行はすべての大陸に拡大し数千万人の命を奪い、ウイルスはその強毒性と伝染速度によって世界中を恐怖に陥れた。ロンドンの国立歌劇場で舞台公演を行ったロシアのバレエダンサー、レオニード・マシーンは、インフルエンザの恐怖に怯えた経験を記しています。

公演では腰布だけをまとった姿で舞台に横たわる場面があり、「寒さが骨までしみてきた」という。マシーンは舞台を無事にこなし、特に不調を感じることもなく翌朝を迎えましたが、劇場に到着したところでいつも入口を警備していた「図体のでかい」 警察官が昨晩死んだことを知った。

インフルエンザは、「ずるく、すばしこく、人をあざむく病気」だとされる。「ずるい」と言われる理由は、インフルエンザによる死亡率はかなり低いものの、感染者の絶対数が多いために合計すれば膨大な数の死者が出ていること、さらに他の多くの感染症と違って獲得した免疫が有効である期間が短いことが挙げられる。

流行のピークには大勢の人々が感染するが、中には感染しても症状が出ない人もいる。過去の大流行インフルエンザが定着したのは、世界各地で人々が家畜を飼いながら集団で生活するようになった紀元前5000年頃だと考えられています。


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