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エベレストはどうやってできた 仲條拓躬

2026/09/14 (Mon) 19:07:01


世界一の山は、海底の堆積物が押し上げられてできました。標高8000mを超えるエベレストは、海底にたまった砂や泥が固まってできた堆積岩でできています。この場所は、はるか昔には海の底だったからです。

インド亜大陸は2億年ほど前には赤道を越えたはるか南にあり、プレート運動によって移動してきて、4300万年ほど前にユーラシア大陸のいまの場所にぶつかりました。その間にたまっていた海底の堆積物が押し上げられ、現在のヒマラヤ山脈ができたのです。

エベレストが、かつて海だった証拠として、イエローバンドやアンモナイトの化石などが見つかっています。エベレストをつくる岩石からは、アンモナイトなど太古の海に生息していた生物の化石がたくさん発掘されています。

また、頂上近くで見られる、いく筋もの黄色っぽい帯状の地層 「イエローバンド」は、大昔の海に生息していた円石藻などのプランクトンの化石です。大陸は、プレートテクトニクスによって動きます。

地球の表面は厚さ100㎞ほどの十数枚のプレートと呼ばれる岩盤からできています。プレートは地球上に、大きなもの14~15枚くらいあります。地殻をつくっているプレートは大きなもので14~15枚あります。

最大のプレートは太平洋プレートで、面積は1億kmを超えます。日本列島のまわりには、北アメリカプレート、太平洋プレート、ユーラシアプレート、フィリピン海プレートという4枚のプレートが集まっています。

南極点は大陸で北極点は氷 仲條拓躬

2026/09/14 (Mon) 19:05:45


南極は極点を大陸が囲んでいますが、北極は極点に陸地がなく、夏でも溶けない多年氷という氷が浮いているだけです。仮に北極に基地をつくっても、漂う氷とともに移動して、最終的には大西洋に流出する恐れがあります。

そのため、南極の昭和基地のような常設の基地はつくれません。北極に陸地がないことが分かったのは、19世紀にナンセンが北極海を漂流したときです。1893年、探検家のナンセンは、調査船「フラム号」と共に北極海の氷に閉じ込められました。

ナンセンは仲間1人と犬ぞりで、北極点へ向かい、フラム号は氷に閉ざされたまま漂流を続け、それぞれ帰還したのは3年後。北極点到達は叶わなかったものの、この漂流で北極には陸地がないことが判明したのです。

それぞれの海には、どんな生き物が棲んでいるかというと、南極にはペンギン、北極にはホッキョクグマがいます。ペンギンは南極にいますが、北極にはいません。南半球で進化したペンギンは暑い熱帯を越えられなかったと考えられています。

一方、北極にはホッキョクグマやホッキョクギツネなどの動物がいますが、南極にはいません。北極は大陸に囲まれ氷づたいに渡ることができましたが、南極は孤立した大陸であるため渡れませんでした。南極や北極の魚はなぜ凍らないのかといいますと血液中に不凍性タンパク質を持っているからです。

海水の氷点はマイナス1.8℃。海面が凍るような海では、魚も凍ってしまうように思えるかもしれません。実は北極海や南極海の魚の血液中には、不凍液の働きをする不凍性タンパク質があり、そのために凍らずに活動することができるのです。

民主主義のアメリカとは 仲條拓躬

2026/09/14 (Mon) 19:04:06


「私は広島に原爆が落とされた日のことを今も覚えている。あの日、私は文字通り誰とも話ができなかった。誰もいなかったのだ。私は夏休みのキャンプに行っていた。ニュースを聞いて、私は林の中へひとりで入っていき、2、3時間たったひとりで過ごした。広島の原爆投下について誰とも話ができなかった。他人の反応がまったく理解できなかった。私は自分が孤立していることを感じた」チョムスキーの述懐である(『チョムスキー・リーダー』パンテオン・ブックス)。

米国のB29爆撃機「エノラゲイ」が広島市の上空から原爆を投下したのは、1945年8月6日の朝であす(米国は5日の夜)。このときノーム・チョムスキーは15歳の高校生でした。チョムスキーは一言も触れていないのですが、この日の、殆どのアメリカ国民は、敵国日本の野蛮な人間が大勢殺されたニュースを聞いて大喜びしていたと言います。

この話を聞いた日本人訳者は国民学校の2年生で、北海道の田舎に疎開していました。凄い「新型爆弾」が落ち、大きな被害が出たことを大人たちが小声でひそひそ話しているのを聞いた記憶があるそうです。その後、戦後の民主主義生活のなかで、原爆投下は戦争の終結を早めるため必要だった、と説明されました。日本人は素直に受け入れました。

しかし、『黙殺』(仲晃NHKブックス)といった本によってあの原爆投下が、戦争の終結にまったく関係のない単なる殺戮であったことを知って愕然としたと言います。あれは、戦争行為に名を借りたテロではなかったか、という疑惑が沸いてきたのです。

アメリカの民主主義というものが必ずしも我々が信じ込まされてきたものとは違うのではないか、と思うのです。第二次世界大戦後、米国は実に20カ国以上と戦争し、爆撃を行っているのです。ほとんど間断なく、世界各地で戦争や爆撃を行ってきた米国と、大リーグやハリウッド映画・ディズニーランドのある米国を同じ国と考えるのは難しいです。

しかし、米国は兵器の輸出国としても世界有数の国であり、現に世界各地の紛争地域で様々な米国製兵器が使われています。米国は戦争の国でもあるのです。人権とか自由とか民主主義といった気高い理想の方に気を取られすぎて来たような気がします。

我々は米国得意のプロパガンダにマインドコントロールされてしまっているのです。歴史上で最も大がかりな集団虐殺の一つとされる行為が、インディアンです。人口が20分の1に減らされたのです。インディアン原住民族が、国家建設の気高い目的のため身を捧げたというのは正確とは言い難いです。

現在の推定では、コロンブスがアメリカ大陸を「発見」した1492年の時点で、ラテン・アメリカ一帯には8000万人のアメリカ原住民がいました。それが1650年には、5%しか残っていなかったのです。もの凄い規模の大虐殺が行われていたのです。

太陽の光が届かない深海 仲條拓躬

2026/09/07 (Mon) 18:17:42


水深200m以下が深海です。一般的に、深海とは水深200mより深い海のことをさします。なぜかというと、これより深くへは太陽光がほとんど届かないため、ここより下では植物プランクトンは光合成を行えず、生物は太陽エネルギーを直接利用することができなくなるからです。

世界でいちばん深いところは、マリアナ海溝のチャレンジャー海淵です。日本の南約2700㎞、グアム島近くのマリアナ海溝にあるチャレンジャー海淵は、1951年に英国の海洋調査船「チャレンジャー8世号」が発見しました。

1993年、日本の調査船「拓洋」などの測定結果を元に、GEBCO (大洋水深総図) 指導委員会で深さ1万920±10mと正式に認定されました。水深はどうやって測るのかというと、音波で測ります。

船から海底に向かって発射した音波が、海底で反射して船へ返ってくるまでの時間から海の深さを測ります。音波が水中を伝わる速さは温度や塩分によって変わるため誤差が生じ、補正が必要になります。ただし、補正が効くのはせいぜい2000mと言われています。

世界中の海水の量は、約13億5千万kmです。海は地球の表面のおよそ7割を占めています。その面積はおよそ3億6千万km²です。平均の水深はおよそ3700mで富士山の高さとほぼ同じです。もし、海水だけを集めて宇宙空間に浮かべたら、直径が1400㎞ (東京~鹿児島間)くらいの球になります。

魚はどれくらい深いところまで生息できるのかというと、水深約8200mで発見されました。2017年8月、太平洋にあるマリアナ海溝の水深8178mのところで無人カメラが魚の姿を捉えました。

シンカイクサウオという種類で白いオタマジャクシのような姿をしています。8200mより深くなると魚類は生息できないという仮説があるので、その限界ギリギリの深さでの発見となりました。

日本の領海と排他的経済水域 仲條拓躬

2026/09/07 (Mon) 18:15:25


日本は領海と排他的経済水域で約447万kmの広さがあります。日本の国土の面積は約38万kmで、世界で61番目と決して広くはありません。しかし、領海と排他的経済水域を合わせた面積は約447万kmあり、世界で6番目の広さを誇ります。

日本の海を大きくしているのは、南北に長い日本列島をはじめとした大小6852の島々で、とりわけ小笠原諸島、沖ノ鳥島、南鳥島、大東諸島などの離島が、面積をさらに押し広げています。

ちなみに、日本の海でいちばん深いところは、水深9780mの伊豆・小笠原海溝です。ここは太平洋プレートとフィリピン海プレートの境界に当たります。日本の周囲では4枚のプレートがひしめき、活発な地殻活動を起こし、複雑な海底地形を造り出しています。

日本のまわりの海は、大陸から日本列島が分離するのに伴いできました。およそ1600万年前にユーラシア大陸の東縁部が割れ、日本列島が離れていくのに従い日本海が生まれました。その後、日本列島は100万年くらいかけていまの位置に移動しました。

地形が変化するにつれ、周囲の潮の流れも変化し、時代によって南から北からと生物が流入していまの姿になりました。日本の海は生物の種類が多いです。南北に長い日本列島はいくつもの気候帯を通り、海底地形はバラエティに富んでいます。

周囲には寒流や暖流が流れ、火山活動や季節の変化もあります。多様な環境は生物多様性を高め、全世界の海洋面積の1.2%に過ぎない日本の排他的経済水域には、全世界の生物種の実に 14.6%が棲息していることが分かっています。

2026年群馬・長野旅日記 仲條拓躬

2026/09/07 (Mon) 18:13:33


東向島駅に集合、近くには、徒歩1分ほどのスーパーとしてグルメシティ東向島駅前店があるので、酒類などを購入して、棚下不動の滝へ向かいました。岩肌を伝って落ちる滝は迫力があり、周囲には静かな緊張感が漂っていました。現地では、滝に打たれながら修行している女性たちの姿もあり、自然の厳しさと信仰の深さを強く感じました。

ただ景色を眺めるだけではない、心が引き締まるような時間になりました。棚下不動の滝は、渋川市の案内では落差約37メートルで、滝の裏側から眺められる滝として紹介されているというので裏側に回ってみました。マイナスイオンいっぱいでした。

棚下不動の滝を見学したあと、水沢うどん田丸屋へ向かいました。順番待ちはかなり時間がかかりそうだったので、有料個室を予約して入ることにしました。落ち着いた空間で、おすすめ料理に加えて大きな卵焼きやローストビーフなどの一品料理も頼み、ゆっくり一杯やりながら食事を楽しみました。

ただ、会計のときに個室代が予約時に聞いていた二千円ではなく五千円になっていて驚いた。電話で対応した女将に話をしたところ、最終的には謝罪してもらえたが、そのやり取りもあって会計は少し面倒に感じた。いろいろあったものの、滝の景色と食事の時間はしっかり思い出に残る一日になりました。

棚下不動の滝は群馬県渋川市の名所として知られ、水沢うどん田丸屋は水沢うどんの店として広く紹介されています。水沢うどんの田丸屋で一杯やってから榛名山のロープウェイに乗り、山頂へ向かいました。榛名山にはロープウェイで登れるので気軽に山の空気を味わえますが、この日は靄が出ていて、頂上からの景色はほとんど見えませんでした。

榛名富士山頂駅からさらに神社まで徒歩で上がりましたが、歩いていたのは私一人だけでした。静かな山の空気の中を進む時間は、景色が見えないぶん印象に残るひとときでした。榛名山のロープウェイを楽しんだあと、宿泊先のホテル天坊へ向かいました。案内されたのは新館のとてもきれいなお部屋で、到着してすぐに満足した気持ちになりました。

その後は、岩風呂やサウナ、露天風呂に入り、旅の疲れをゆっくり癒やしました。広いお風呂でのんびり過ごす時間はとても気持ちよく、贅沢なひと時でした。夜は宴会もあり、にぎやかで楽しい時間を過ごしました。コンパニオンさんとの会話も弾み、思い出に残るひと晩になりました。温泉も食事も楽しく、心に残る良い旅の一日でした。

翌日、伊香保温泉のホテル天坊で朝を迎えた。早朝から露天風呂へ向かい、伊香保の山あいの空気を感じながら、ゆっくりと湯につかった。ホテル天坊は、黄金の湯と白銀の湯の二つの湯めぐりが楽しめる宿として知られており、朝からとても贅沢な気分を味わえた。

朝食はバイキングだったが、席もきちんと用意していただいていて、落ち着いて食事ができた。朝から一杯いただいたあと、伊香保石段街へ向かった。伊香保のシンボルでもあるこの石段街は、温泉街の中心に続く365段の石段が有名で、風情ある店が立ち並ぶ伊香保らしい景色が広がっていた。

あいにくの雨ではあったが、そのぶん石段や街並みにしっとりとした趣があり、かえって印象深かった。石段を登り切った先にある伊香保神社では、旅の記念におみくじを先輩に買っていただいた。「小吉」だった。石段の頂上にある神社までたどり着くと、雨の中を歩いた達成感もひとしおで、思い出に残るひとときになった。

その後は軽井沢へ向かい、自然に囲まれた商業エリアのハルニレテラスで買い物を楽しんだ。川辺の落ち着いた雰囲気の中で店を見て歩く時間は心地よく、伊香保とはまた違ったおしゃれな空気を味わえた。

お昼は黒田屋の地酒と蕎麦の店で一杯やり、旅の締めくくりにぴったりの時間を過ごした。温泉地と高原の雰囲気をどちらも楽しめたうえ、最後は都内まで順調に帰ることができ、充実した一日になりました。

カンザーのマングローブ林 仲條拓躬

2026/09/07 (Mon) 18:12:02


ベトナムの南部デルタ地域、カンザー地区にはベトナム最大のマングローブ林が広がっていました。しかし、1960年代から1970年代のベトナム戦争中、米軍が撒いた枯葉剤によって約四万ヘクタールもあったマングローブ林のほぼすべてが死滅してしまった。

カンザー地区はホーチミン市(当時はサイゴン)の南端に位置し、米軍や南ベトナム政府軍と戦う南ベトナム解放戦線の拠点でした。マングローブ林は彼らにとって格好の隠れ家で、ここを拠点にゲリラ活動を行っていたのです。

この戦術に手を焼いた米軍はマングローブを一掃する作戦を遂行し、100万ガロン以上、8万3600キロリットルの枯葉剤と除草剤が散布されました。散布攻撃は熾烈でマングローブ林の約7割にあたる3万ヘクタール近くが枯れ果てました。カンザー地区のマングローブは壊滅的な打撃を受けたのです。マングローブは特定の植物の名前ではありません。

満潮時は海面下に沈み、干潮時は陸地となる潮間帯に育つ植物の総称で、種類は約百種あります。マングローブは生活に必要なものを提供してくれます。樹木は建材や燃料に使われ、樹液は薬にもなります。

またマングローブはそこに住む生き物に豊かな生息環境を提供し、魚介類なども豊富に育ちます。それだけでなく自然の防波堤の役割も果たしてくれます。戦争中であるにもかかわらず、人々はマングローブの再生に取り組み、約8500ヘクタールの植林が行われました。

戦争後にはベトナム政府や日本のNGOなども加わって、2万ヘクタールのマングローブ林の再生がカンザー地区で行われました。世界的に見ても森林回復を成功させた模範的な地域です。ここカンザー地区は2001年1月、ユネスコにより生物圏保存地域に指定されました

キタシロサイ絶滅 仲條拓躬

2026/09/07 (Mon) 18:10:24


コンゴ民主共和国北東部のスーダン国境近くに広がるガランバ国立公園はキタシロサイの保護区として知られています。この絶滅危惧種の保護に力を注いできたことが評価され、1980年ガランバ国立公園はユネスコの世界遺産に登録されました。

キタシロサイはかつてチャド南部からコンゴ民主共和国まで、中央アフリカ各地に分布していました。体長は三メートルから四メートル前後で、オスの体重は三トンを超えることもあります。視力は弱く、聴覚と嗅覚に頼って行動します。

昼間は木陰で休んだり泥浴びしたりしています。頭部には二本の角があり、端部 (ロ先)の角のほうが最長160センチに達します。この角こそが彼らを絶滅に追い込んだ原因です。角は中国では漢方薬として珍重され、イエメンでは短剣の柄として高い値がつくからです。

1960年には2000頭以上生息していたことが確認されていますが、1960年代から80年代にかけて密猟が後を絶たず、1984年にはわずか15頭にまで激減しました。この年、キタシロサイはこのままでは絶滅する恐れがあるため、ガランバ国立公園は危機遺産リストに加えられました。その後、密猟対策が徹底され、微増傾向に転じました。

1992年には十分な成果を挙げたとしてキタシロサイは危機遺産リストから外されました。しかし90年代後半に始まったコンゴ民主共和国(旧ザイール)の内戦のせいで順調に進んでいた保護活動は頓挫し、キタシロサイの生息数はついに一桁台に落ち込み、1996年には再び危機遺産リストに掲載されました。

2005年の調査ではわずか4個体しか確認されず、2006年8月以降野生のキタシロサイは発見されていません。2008年までに野生種は絶滅したと考えられています。2009年、チェコの動物園で飼育されていたオスとメス2頭ずつをケニアのオルペジェタ自然保護区に移し繁殖を試みました。

高齢のオス「スーダン」とその娘の「ナジン」、ナジンの娘「フアトゥ」、3頭と血縁関係にある若いオスの「スニ」です。しかし2014年に繁殖能力のあるスニが死に、キタシロサイ最後のオスとなったスーダンも2018年に死亡しました。

ナジンとファトゥはすでに生殖能力がない年齢に達していました。この時点でキタシロサイは事実上絶滅したことになります。しかし冷凍保存しておいた精子を用いた人工授精の試みが続けられています。そして多くのサイは現在でも密猟の対象となっており、ジャワサイやスマトラサイも個体数が2桁までに減り、絶滅の瀬戸際にあるのです。

もし宇垣内閣が成立していたら 仲條拓躬

2026/09/07 (Mon) 18:08:03


満州事変を起こし、満州建国を実現させた石原莞爾は、数十年後に、アメリカ連合と日本を含む東亜との間での世界統一最終戦争を想定して、その前段階の対ソ戦に備えるために「日満経済五ヵ年計画」と「陸軍三十六個師団」を構想していました。この構想実現のために理解ある内閣の実現を考えている男が林鉄十郎大将でした。

林大将は満州事変勃発の際、朝鮮軍司令官として天皇の許可、中央の命令を受けないのに独断で満州と朝鮮の境を越えて、関東軍支援に兵を動かした。林大将は石原莞爾らの構想を全て理解していたのです。石原莞爾によれば林大将は「虎にもなり猫にもなる」人物でした。この林内閣実現のためにも宇垣内閣の成立は阻止しなければならなかったのです。

石原莞爾の狙い通りに、宇垣内閣阻止の後の大命は林大将に下りました。居葦原は組閣本部に興中公司社長、元満鉄理事の十河信二、九州民憲党元代義士で労働運動のリーダーだった浅原健三、満鉄経済調査局の宮崎正義といった側近を送り込み、組閣を牛耳ろうとしました。

石原莞爾の狙いは十河信二を内閣の中枢にすえて、陸相に板垣征四郎、海相に海軍でロンドン軍縮条約に反対した、艦隊派の中心、末次信正を就任させて「石原内閣」を造ることでした。

ところが、板垣征四郎は当時の梅津美治郎次官より年次も若く師団長も経験していないことから陸軍首脳に退けられ、末次は条約賛成の海軍主流の容れるところにならず、十河も組閣本部に入りこんでいた右翼と衝突するなどして組閣本部を追い出され、石原莞爾の意図はつぶれたのです。

石原莞爾は後年、「何のためにああまで宇垣の組閣に反対し林内閣の出現に努力したか分からない」と宇垣にその誤りを告白しました(『秘録 石原莞爾』)。宇垣内閣阻止は陸軍の幕僚ファッショの始まりです。天皇の統帥権なるものは実体のないものであり、陸軍が「天皇の軍隊」と称するのは矛盾に満ちたものであることを示しています。

寺内はあとで、「宇垣には申し訳ないことをした。時期がもう少し遅ければよかった」といったが、時は陸軍専制へと流れを早めるだけだったのです。石原莞爾はのち参謀本部作戦部長となり、支那事変の勃発に際しては国力の消耗を避けるべきだとしてその拡大に反対して、近衛首相に蒋介石総統との会談をすすめるなどした。

だが、拡大派の体勢におしつぶされました。やがて参謀本部から関東軍参謀副長として参謀長の東条英機の下におしこめられて、急速に勢威を失ってゆくのです。宇垣内閣が成立していたらどうであったでしょうか。推測は無限に可能ですが、日本のその後の針路はかなり変わっていたと思います。

2026年箱根と熱海旅日記3日目 仲條拓躬

2026/09/02 (Wed) 18:33:41


三日目の朝は、翌日に早朝から両国で観光案内の予定が入っていたため、この日は早めに帰るつもりで一日を始めました。まずは露天温泉に入り、旅の疲れをじんわりと癒しました。箱根と熱海で過ごしたここまでの時間を思い返しながら、湯のぬくもりに包まれるひと時はとても気持ちがよかったです。

温泉のあとは朝食をすませ、すぐにフロントで会計の手続きをしました。出発前の慌ただしい時間ではありましたが、お土産のことも気になっていました。昨日、頼まれていたお土産は熱海で購入していましたが、義父と義理の弟の分は宿のフロントにも置かれていたので、そこで買うことにしました。

選んだのは、老舗和菓子店の間瀬のお菓子です。旅先らしい品を用意できて、ほっとした気持ちになりました。急いで会計を済ませて宿を出発し、そのまま車で高速道路に乗った。ようやく帰路についたと思ったところで、電話が鳴った。見慣れない番号だったが出てみると、宿のフロントからだった。なんと部屋の鍵が見当たらないという。

話を聞いてすぐ、自分が鍵を持ったまま帰ってきてしまったことに気づいた。まさかと思ったが本当に持ってきてしまっており、その日のうちに速達で送ってほしいと言われた。せっかくの帰り道だったが、思いがけない失敗に気持ちが少し沈んだ。

高速の途中では海老名サービスエリアに立ち寄り、そこでまたお土産を購入した。人も多くにぎやかだったが、帰る前の最後の買い物として立ち寄れたのはよかった。柏インターには昼ごろに到着した。旅の間はお刺身など海の幸を食べることが多かったので、昼食は少し違うものにしようと思った。

しかし、どこも混んでいたため、かつやでカツカレーを食べることにした。ところが、これが自分にはとても合わず、正直なところあまりおいしいとは思えなかった。旅の締めくくりの食事としては少し残念だった。その後は洗車をして、すぐに帰宅した。

帰ってからもゆっくり余韻に浸る間はあまりなかった。翌日は復興記念館、慰霊碑、安田庭園、第一ホテル両国の和食処さくら、刀剣博物館、国技館、そして江戸東京博物館を案内する予定があり、添乗のようなかたちで動いた。

訪問先が多く、とてもタイトな予定だった為、気持ちは一気に現実へ引き戻された。箱根と熱海で過ごした、ゆったりした三日間はまるで幻のように感じられた。楽しく穏やかな旅の時間と、その後の慌ただしい日常との落差が大きく、印象に残る締めくくりとなった。


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