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国がないクルド人の歴史

1:仲條拓躬:

2024/04/26 (Fri) 15:23:55


「強い人」という意味の名を持つクルド人は、2500万人いると言われています。多くはトルコ、イラク、イランに居住し、一部はシリア、アルメニアにも住んでいます。国境を越えたクルド人の居住地は、民族の一体感、文明面での独自性を強く意識しており、この地方を独立国にしたいと願っているのです。

だが、各国政府は当然のことながらそれを許しておらず、分散しているクルド人を少数民族としての扱いを軽視しています。こうしたクルド人による各国での反政府運動が、「クルド人問題」といわれているのです。

クルド人の起源は、前2000年頃にはじまり印欧語族の移動により移ってきたイラン系の人々と土着のグティ人が混血した頃にあるとされています。現在のクルド人は、さらにアッシリア、アラブ、トルコ、モンゴルなどの民族の侵入を経験し、それら民族との混血があったと言われています。

国をもてなかったクルド人にも、過去の歴史の中で建国の機会がありました。10世紀後半、イスラム帝国において、イラクを中心として栄えていたアッバース朝が崩壊すると、クルド人はイラクの北西部からシリアの遊牧民の地にかけ地方王朝マルワーン朝を興した。

勢いづいたクルド人は、1169年には、クルド出身のサラーフ・アッディーンがカイロを中心にアイユーブ朝を建国しました。しかし、この広大なアイユーブ朝では、クルド人は軍人として力をもっていただけで、政治面までは占有することができなかったのです。

不幸なことに、16世紀には、クルディスターンはオスマントルコ帝国とイランのサファービー朝との戦場となってしまいました。長期にわたって両国から脅かされ1639年には、両朝はクルド人を無視して境界を設け、クルディスターンを分断してしまったのです。

以来、居住地域を大国の勝手な都合で分断されてしまったクルド人に、民族独立の気運が高まり、この思いが、他国に利用されるという悲劇が始まったのです。最初の事件は第二次世界大戦の国際関係の混乱期に起こりました。

イラン侵攻を計るソ連がクルド人を支援して独立の気運を高め、軍を強化したのです。1946年1月には、クルディスターン共和国の建国を宣言するにいたったのですが、半年もせずにソ連が撤退して崩壊してしまったのです。

1980年9月にはじまったイラン・イラク戦争でも、同じような事態が起こりました。イランはイラク北部のクルド人に、イラクはイラン北部のクルド人に働きかけ、お互いに反政府運動を活発にして、戦力の分散を図りました。

1988年には、イランがイラク北部に侵攻し、クルド人反政府勢力と合流したことから、イラク軍は自国でありながら化学兵器を使用し、イラン軍を撃退すると共に、一般住民を含め数千人といわれるクルド人を虐殺したのです。

この事件を契機に、一気にイラク軍が勢力を盛り返し、イラン軍が国連の提案した停戦決議を受け入れるにいたったのです。イラン・イラク戦争によって、クルド人が難民と化し、イランやトルコに分散しました。

不幸な運命のもとで、民族としての独立を求める動きは活発となり、イラン、イラクでも戦闘はやむことがなく、単一民族国家を理想とするトルコでは、クルド人の存在そのものを否定し、クルド人を「山岳トルコ人」と呼んでいるのが現状です。クルド人による武装ゲリラ活動は活発になっていますが「クルディスターン建国」は、先が見えない状態なのです。

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